2009年 01月 14日
クリシュナ
カフェスタは不調になり、台所の湯沸かし器は、突如燃え上がり、家に修理が入り、妹は結婚し、息子はすべての習い事をやめて、野球をはじめ、などなど。
わたしの調子もへん。いま、オバマ大統領の自伝を読んでいるのだが、少年オバマ君が空港でおじいさんにおどけて見せたところで、涙してしまった。自分には理解できるが(当たり前だ)感動の壷が、説明できない。
人間。に反応しているんだろうな。
波動といえば、大津さんの波動はすばらしく、そこで、何もしなくても、幸せがみなぎっているひとになってしまった。
いままでは真理の話をするときだけ、すばらしい影響力があるひとだったのに、もうそこにいるだけでいいひとになってしまったのだ。
ビバ大津さん。
お地蔵さんみたい。
わたしもお地蔵さんみたいな人になろう。
というのが2009年の目標です。
そういえば、大津さんが変化して、わたしもまじめに、形を持ったクリシュナにつながるようになりました。(いままでは一瞬はわかるけど、基本金色としか認識していなかった。)
でもその姿は、花々や星々を撒き散らしながら笛を吹いたり、奥さんや恋人たちを従えているような愛らしい感じではなく、手がいっぱいあって、顔もいっぱいあって、さまざまな時空に同時に存在し、同時にいろんなことをやっているという巨大なもの。
バガバット・ギーターで、アルジュナが一瞬垣間見たような存在。
とんでもない規模のエネルギーの対流が周りで起きている。
そのクリシュナをみると、みんなが神話で語っているチャーミーな姿が、まるで冗談みたいな気がする。
けれど、それが当時の人にとって、もっとも受け入れやすい神的な形だったのだろう。
手がたくさんあるクリシュナが、すごくなつかしい。
(大津さんいわく千手観音のもとはクリシュナだったそうです。)
と、同時に、これなら、ひととしてたとえどんな形を取ったとしても、とても全部なんて絶対にあらわせない。ということがわかりました。
人間の身体は、これほどの光を、表現するようにはできていない。
だからありんこが見た象の部分映像のように、必要な分だけ、からだが耐久できるぶんだけ、したい学び、果たしたい役割に添った形で、今回のように一見不器用に見える形を選んだんだな。ということが、よくわかった。
全知全能なんだから、大津さんがクリシュナならなんでもできるはず、なんて、考えたりいったりしていたけど、それは全知全能がなんだかわかっていなかったから、言えたことだと反省しました。
あれは無理です。
ひとかけらだけでも表現できたら、それでもう、ものすごいんじゃない?っていうくらいのもんです。
がー
それでもちゃんとシャープに発信できたら、全知全能的な、大きな気づきが生まれる。
なんですばらしいんだろう
(大津さんについては友人の徳ちゃんの
http://chandra.exblog.jp
および、http://artandlove.exblog.jp/blog.asp?iid=3&acv=&dif=&opt=2&srl=10547593&dte=2009%2D01%2D08+17%3A43%3A54%2E000
を参照ください。)
この手だらけ顔だらけのクリシュナを垣間見て、人間マトリョーシカ人形説というのを考えました。
人間は、マトリョーシカ人形のように、各次元に規模の違った自分として同時に存在している。
その全ての次元は、真我である我という座で、統合されている。
が、個体としてのひとはその部分の記憶が、失われ、認識できない。
魂が成長し、波動が上がり、マトリョーシカ次元が上がると、愛の深まりによって上がった分だけ記憶が蘇り、物事の理解が増し、エネルギー量が増え、自由度が増す。
しかしどの次元までのマトリョーシカ人形として機能できるかは、どこまで自分自身と認めるにかかっており、ひとによって違っている。
わたしは(上のほうもですが)三次元のマトリョーシカ人形がちゃんと機能していないので、日々を送るのが結構難しいのです。
なので半透明なそれに、このたび「福助」と名前をつけ、ゲームのキャラのように、育ててみることにしました。
福助。よく居眠りしてますが、エネルギーには鈍感です(笑)
よろしくね。