写真

初めて、アートに踏み込んだ写真をみたのは、高校時代。
バイト先の富士山の山小屋でした。

7合目の日の出荘というその小屋に関わりのある人物が撮った、
壁のモノクロ写真。

ぎろっと、睨むような目をした男性の迫力を、今でも覚えいる。

被写体を説明的に撮ったのではなく、
空気まるごとを捉えた写真を見たのは、初めての経験でした。

それから、なんとなく写真に目がいくようになり、自分自身も情緒的にディープになっていったこともあって、
藤原新也さんのインドのシリーズとか、荒木経維さんのさっちんとか、
濃い目の写真が好きになりました。
マン・レイの変な光線とか、ね。

今だったら本城直季さんのミニチュアの世界とか蜷川実香さんとか、
キッチュでおもしろい感じの写真を眺めるのも好きです。
世界が違って見える。
たまたまミクシイで知り合った、カメラマンのkazesanの写真も大好き。(ブログなどでは、風景写真を見ることが多いような気がしますが、わたしは人物を撮った写真が特に好きです。kazesanは写っている人たちと、心のそこから一緒に生きているんだと思う。)

それはともかく、

写真って、ただシャッターを押した先にある対象が「たまたまそこに写る」ようなものではなく
写しだされるのは、撮り手が見ている、非常に個人的な、世界そのものの姿、なのだと思うのです。

被写体に対して、その人が持っている感情が、そのまま現われる。

わたしにはたぶん人よりも、「より深く写っているもの」がわかるのかもしれないけど、
よくわからなくても、それはみんなに伝わっているんだと思う。

先日、セバスチャン・サルガートさんという、ブラジル人ジャーナリストの写真を見ました。

世界中の労働者たちのシリーズや、アフリカの飢餓・戦場写真、現在は創世記時代を髣髴とさせる地球の写真や、大自然の生き物を撮る写真家です。

その中で、一枚の写真に目が留まりました。

エチオピアの、学校の教室に積み重なるように倒れている、
その一年前に虐殺された、何百体もの人骨の写真です。

サルガードさんが、敬虔な気持ちで撮ったからでしょう。
柔らかい光に包まれて、その光景は、とても静謐で、清らかに見えました。

折り重なった凄惨な死体の写真。
なのに、美しい、といっていい。

たくさんの人骨は、すでに皮膚も眼球も失っていたけど、そのひとたちは、
一人ひとりが立派に、人生を全うした個人として、生きているように見えました
お化けとしてではなく。
だからわたしは、彼らがそこに閉じ込められ、虐殺に至るまでのシーンをとても冷静に読むことができた。

フイルムを巻き戻すように、人々が皮膚や筋肉を取り戻し、傷口から出血し、じわじわと死に至るまで。起き上がった彼らにたくさんの銃弾が打ち込まれ、騒乱が始まった瞬間。

更にもどってたくさんの怒号と、教室に入る前の喧騒。強い日差し。情況を見守るかのような、途方にくれた小さな生き物ー蜥蜴みたいなーのまなざし。
家での時間と最後のご飯。かすかな風のそよぎ。星の瞬きと静かな夜。貧しくても、互いに支えあいながら、ささやかで尊い、たくさんの喜びに包まれて生活していた時間。誕生と死。笑顔や会話。
そういう豊かな生活まで、を、
たどっていくことができたのです。

一人ひとりが深い尊厳をもって生きていた。
最後はそこで、積み重なった骨になったけど。

写し取られたのは、ただ悲惨なだけの事件現場ではない。

助け合い、愛し合い、ぎりぎりまで生きることに奮闘して、精一杯命の限りを尽くした尊敬すべき人々がそこに存在していたのだ。という崇高な事実でした。

そこで死んでいるのは、わたしであり、あなたであった。
とても大切な、ひとびと。

「わたしたちはもっともっと、対象を尊敬しなければならない。」
と、サルガートさんは言います。

きっと、そこなんだろうな。
わたしに足りないのは、「対象を尊敬する気持ち」なんだと思う。

尊敬して、心を開いて、近づくこと。もっともっともっと。

そこに尊敬がないから、きっと苦しくなるんだ。

人間ってすごいなあ。と思います。

命そのものがすごいんだよ。って
サルガートさんなら言うのでしょう。

そこにわたしがいて、そこにあなたがいれば
天国のラッパは鳴り響き、魂は永遠の平安を得る。

いつでも。

そんなことを、この一枚の写真は教えてくれます。

一人の力って、大きいね。
by terasumonnmoku | 2010-01-29 17:19 | 未分類 | Comments(0)

生きる意味が見つからないなら、自分で創って育てちゃおう!というブログです。やっていることはさまざまですが、常に生きることに向かっています。

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