2011年 01月 07日
つながりの作法
以下敬称略
日常にあふれる温度、光の刺激、音、色彩などの情報を無制限に受け取ってしまうために、そこから意味を認知するための取捨選択ができず、適切な自己像を生み出すことが困難な、(外界に対し開きすぎてつながれない)アスペルガー症候群の綾屋と、
外界からの刺激に過度の身体的緊張をおこしやすく、社会との適切な情報交流を行い難い、(身体の結合が強すぎ、状況の変化に適応するのが難しいーつながりすぎる)痙直型脳性まひ車いすユーザーの熊谷による、
当事者研究(浦河・べてるの家、浦川赤十字病院精神科ではじまった、精神障害者と家族のためのリハビリテーションプログラム)を用いた、
他者と安全につながる方法を模索する著書。
「わたし」という自己像は、純粋に内面的な部分と、
他者からの認知によって構成される公的な部分とに分かれていると思うが、
その両者の「わたし」が、ある程度一体化した時、
ひとは幸福を感じるようにできているのだと最近思うようになった。
なぜ最近かというと、わたし(もんもく)の場合、長いこと他者のいない、他者からの認知によって共同制作される「私」を必要としない、ある種自閉的な世界に生きてきたからであるのだが、
それはさておき、いずれの「わたし」も
常に情報の出入り、によって絶え間なく作り変えられているのが、
ひととして健全なあり方であるだろう。
人が存在するということには、変化すること。が前提として含まれている。
父母、こども、性別、社会的地位、などなどの役割をどのようなスタンスで行うか、
意識や仕事や取り組むべき課題へのモチベーションの持ち方、
身体の状況、天気、政治経済状況、周りの人の人間関係、
変化するわたし(たぶん変化しているのは周りではなく自分なのだろうが逆に見える)
の前に立ち現われる世界を前に、わたしたちは絶え間なく、自己像を更新し続ける必要がある。
揺れることで倒壊することを防ぐ建物のように
変化すること、が自然なのだ。
そうしないと脆弱な自我は、どこかで悲鳴を上げる。
ある上司の下では問題なく通っていた自己像が、
別の上司の下では全く通用しないということもよくあるだろう。
いい子を演じるのが快感だったときもあれば、
その同じ行為が自分の首を絞めてゆくように感じることもある。
常にわたしたちは成長し、それに伴い環境も揺れ動いている。
ゆえに、わたしたちは常に自分を変化させ、よりハッピーな自己像を創造し、世界をより住みやすいものに変えてゆく必要がある。
べてるの家、とともにアメリカのAAからはじまった薬物依存アルコール依存回復プログラムを用いたダルク女性ハウスの実践について書かれていた。
そこで語られた「依存症のわたしたちって、変化したくないんです」(その後の不自由ー上岡陽江)という言葉はとても説得力があるものだった。
変化しないために依存を選んだ。
だから克服するためには、変化し続ける日常に、いかに自己を添わせてゆくか。
自らが自らの選択によって変わり続ける。とうことを決意しなくてはいけない。
確実に状況をコントロールできるような手法を手放して、
自我を常に新たな状況のもとに開示すること。
たしか岡倉天心の「茶の本」にあった、
「 茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。」
という文章がこれにあたるのかもしれない。
(別の訳で、この「即興劇」部分を「開かれた祝祭」としてあったのを見た気がするのだが、原文をどうしても発見できなかった。意味合いを考えるとここは、開かれた祝祭、としたほうがぴったりくるような気がするのだが、残念!)
常に開かれ、交流し、新たななにかに生まれ変わっている。
始まりもなく終わりもなく、永遠の現在ー今だけがそこにある。
わたしたちは宇宙にひらめく無限のパルス。
自己の存在の連続性に執着するのは愚かだとわかっていても
無限はあまりにもはてしない。
恐怖を断ち切り、
瞬間の中の永遠を感じ取るためには
自己の奥深くまで立ち入って白日の下にさらし、すべてで目いっぱい生きる(交流する。受発信する。)必要がある。
最初に戻るが、わたしには公の自己像。というものがない。
それは透視能力があるとか、4次元までしか意識が下りてきていないとかいうことの、
本人に感じられるきわめて具体的な顕れであって、
わたしは、この本を書いている綾屋さんや、熊谷さんと同じように
3次元的にものが見えないという、障害をもったひととして、自分を認知している。
困ることも多く、
特に親しい人との個人的な関係において大変困ったことを作り出す原因になっている。
なぜかというと、ひとは他者を否定したりさばいたり、
あるいは現状を打開するための解決策を見出すために、
この客観的な自己像から材料を持ってきて問題を指摘しあうことが多いが、
わたしに対しそれは全く効力をもたないために、当たり前な会話が成立しないのだ。
なぜそれが問題なのかがわからない。
それは関係の遠いひとにとっては刺激になろう。
しかし家族はつらい(に違いない。)
それはさておき(おくのか!?w( ̄o ̄)w!)
いいことももちろんあって、その副産物として、人のことが自分のことのようにわかる。
常に判断基準が自分自身である。とか。
あるいは妬みとか、人を嫌う感情から基本的に自由であるというのも挙げられる。
人をうらやましく思う。というためには、そのひとが自分と違う必要がある。
誰かを嫌いになるためには、距離がいる。
唯一わたしがうらやましいと思った人がいて、その人をうらやましいと思った、と友人にいうと、「うらやましいと思うということは、本来もんもくが、それを持っているということなんだよ」と言われたことがある。
「持っている」という言葉に違和感を感じ、そのことについてずっと考えていた。
うらやましかったのは、わたしが人生の目的のように思っていたことを、そのひとはできるけれども自分はできない。と思ったからなのだが、よく考えると方法が違うだけで私も同じことができるということが分かったので今はうらやましくない。
違和感を感じたのは、その「持っている」感覚のほうだ。
誰かが持っていたら、自分は持っていないんだろうか。
そんなことがありうるのか。
同じ場所にふたつのものがない。
というのとおんなじくらい、不思議だ。
ひとが持っていて、自分がない。
ということは、自分が持っていることとおんなじだ。
(だから人のものは自分のものになるのか?うーん。それとこれとは違うような)
わたしに必要なのは<経験>であって<もの>ではない。
だから昔からなんでも体験したいし欲しがる割には、それに執着することはない。
「持つ」「所有する」というのは、
きっと三次元にしか起こりえない感覚なんだろうな。
しかしその「ない」という感覚が紡ぎだす分離感は強烈であるらしく、
本書の中でも、綾屋の精神的トラウマを再現するカギになっている。
同僚の昇進をねたむ気持ちが、自分の無価感に結びついてゆくさまは、
大変な迫力がある。
彼女のそう強いとはいえそうもないアイデンティティが、今にも壊れてしまいかねないところまでいくのだ。
自分の感覚を共有すること。
経験を分かち合える安全な場所を確保することが、緊急に必要になる。
自分の焦燥を言語化し、それを一般化し、誰かと経験を共有することが、救いになる。
解決はしなくても。
解決策なんて、逆にないほうがいいのかもしれない。
解決は、この経験を言語化し公共化することによって、
その衝撃に耐えうる新たな自己像を作り出すという試みの過程に、
自然に本人が行なってゆくものなのだろう。
この体験をシェアするーというべてるの家の当事者研究の方法は、
すごくわかりやすかった。
ここでAAの、依存症の回復プログラムが使われているのも納得である。
あまりにすばらしいので、依存症回復プログラムで使われているお祈りと基本的な考え方の一部を抜粋して掲載してみた。
もしここまで読んでくれた人がいたら、↓みてみてね。
「平安の祈り」
神様、わたしにお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを
AA(アルコホリークスアノニマス)12の伝統より
・わたしたちのグループの目的の中の最高の権威はただ一つ
グループの良心の中に自分を現される、愛の神である
わたしたちのリーダーは奉仕をまかされたしもべであって、支配はしない
・各グループの目的はただ一つ
今苦しんでいるアルコホリークスにメッセージを運ぶことである
たくさんのことを学んで、お互いに、必要なことはお互い全部やり終えた。それってかなりすごいことだと思うんだよ♪これからは、それぞれに、それぞれの人生をがんばろうね☆彡!