2011年 04月 22日
sakura
霧雨にけぶる桜の花は、
たとえようもなく美しい。
遠くから見る桜は気体のようですが
近くで見る桜は花のようです(花です。当たり前です。)
遠くから見ると、エネルギーがよくわかって
一本一本の個性の違いも際立つけど
接近しすぎると
桜という花にしか見えない(笑)
完熟マンゴーさんと話していて
人間も同じかも。と思いました。
近づきすぎると、細部が恐ろしくクローズアップされて、全体が見えないの。
だから近くの人と
学びをするのかな。
地面に枝を堂々と伸ばした桜の木の中にいると
くっきりと輪郭もあらわなその花たちはあまりにも健全に見え、
桜の木の下にいると気が狂う
という坂口安吾的境地にはとてもなりません。
安吾の桜の森の木は、みんなきっとものすごく背が高かったに違いない。
一週間前、完熟マンゴーさんとやっちゃんは、同じ場所に花見の下見にきたそうです。
そして、行楽客の間で
へそ呼吸をしたそうです(笑)
へそ呼吸をするためには大地に寝そべる必要があるみたいで、今日は雨だったのでそれはできませんでしたが、実にへそ呼吸にふさわしい桜が
そこにはいっぱい咲いていました。
そうだ。
いぜん石井ゆかりさんの「青い鳥の本」http://www.crispysand.jp/#home/右下をクリックすると出ます。というのでその日の言葉を出して遊ぶ、というのをやってみたら
普通に見る愛は、レタスやバラの花びらといった
鮮やかな色や、形をしたものですが
実はそれらは、土の中で育ち、芽を出します。
愛という形も、深い部分では
全然違う見え方をするものです。
というようなことが書いてあって、
これはもしかして、桜の見え方に、
似てるかも。
と思いました。
桜のエネルギーも
桜という名前の花も
愛の一つの側面でしかないんだろうな。
幹の中で流れる樹液とか
ぷっくりと開いてゆく芽とか
植えられてから枯れるまでの悠久の時間とか
花を見てくれた人の
記憶のかけらの集積とか
桜のピースは、受け取る人の器の大きさだけ、きっと存在するんだろう。
どこまでもふかまってゆく世界に、うっとりする、2011年の春でした。