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artandlove☆もんもく日記2

生きる意味

思春期の息子と一緒にいて嫌だなあ~と思うのは、彼がわたしにそっくりだ。ということ。

この間、偶然彼の大学ノートの裏側に、右下に大きなそして(人のことは言えないが)下手な字で黒々と
「生きる意味」と書いてあるのを見つけてしまった。

彼の父は、極めて現実的な人だった。

自分の人生には意味がないから死んでしまおうと思ったことはあっただろうが、
死ぬ寸前まで、そこで思考を停止して、でも責任があるからやっぱりがんばろう。
と方向転換していたように思う。

自分を矯正して矯正して、がんばりきれなくなった時に死んだのだ。

生きることにどんな意味があるか、については、深くは考えたこともなかった気がするし、実際にそれが必要になったときには、もう余力が残っていなかった。
(この二つはそっくりに見えて中身が全然違う。最初の-意味がないから死んでしまおうーは単なるナルシズムだが、下の部分-意味を問うーは世界の見方を変える可能性ー学びを孕んでいる。)


息子がまだ幼いころ、人間関係に悩み、自分自身がわからない。と立ちすくむ姿を見て、「俺にはああいうところはない」と首をかしげていたこともあったから、彼の哲学的な問題をどこまでも深く考えてしまう傾向は、夫というより、わたしに似たのだろう。

親として、自分の子供に生きる意味を問われるのは、かなりきつい状況だが、
(母としての答は、参考でしかない。それは彼が自分で解を見出さなければならない問題だからだ。)
息子にとって、社会的に大きな評価を受けていた父親の、仕事上の失望による死、という体験は強烈で、
どうしてもその辺は通らざるを得ない道なのかもしれない。

わたしは一人で孤独に考え4年かけて答えを出したが、彼はなぜか母に問う。
たぶん、わたしのなかで処理しきれていないものがあるからに違いない。

最近、自分自身について思うのが、とりたててこれが自分、といえるようなものがなくても
いいのかもしれないな。ということだ。

なにか特別なことをしていなくても、誰かに誇れるようなものがなくても、元気で幸せに毎日を生き、出会う人と生産的な何かを分かち合ってゆければ、それで人生の目的は達成されているのかもしれない。

シェアするためには場所が必要なので、絵を描いたり、仕事をしたり、文章を書いたりまあ、いろんなことをしているけど、目的は他者とある感覚を共有することにあり、なにかを達成するためではない。
だから成果自体は問題ではない。

その「ある感覚」というのは、説明するのが難しいのだが、共同作業によって一つの限界を超える。的な感覚だ。

たとえばすごく難しい現象があったとして、そこからなんとかしてより良い状況を創り出していこうとする。
そのときに、相手が悪い。というパターンから、全体の責任、システムの齟齬に前提をもどし、みんなでどうしたらより良くしていけるのかを考えようと設定をフラットにしてゆく。
大概理念ばかりが先行するだろうが、共有された理念というのは、案外強い拘束力がある。
9条なんて、その最たるものだ。
行きつ戻りつしながら、より良くなってゆけばいいのだと思う。
でも、どんな時も、最良を願う心が誰の中にもあることだけは、忘れてはいけない。

そのように働きかけて、心の深い部分に何かが届き、そのひとが肩書を忘れた一人の人間に立ち返ったときに、蘇る人の中にはそれが蘇り、実際に現実を変える力になる。ようなことが(規模はそれぞれだが)起こるーとわたしは信じている。

そのひとりのひとのなかに、なにかがヒットした感覚というのがとても好きだ。
相手の中のとても深いものと、自分の中のとても深いものが、握手する感じ。
国境を越えて、はるかな地平に到達する的な(壮大に言えば・笑)

先日、友人の陶芸作家eikoちゃんと、庭を見に行ったとき
「わたしは陶芸が好きだから、毎日毎日陶芸のことばかり考えているけど、もんもくちゃんは何を考えているの?」

と聞かれ、

そんな風に答えた。

アートと、スピリチュアルと、現実の社会的な活動と、過労死の問題に取り組むことには、一見なんの関連もなさそうだが、わたしにとってはすべて同じである。
目指しているのは、そこを通して関わる人の深いところと、心を込めて握手していきたい。ということ。

その瞬間、自他の境界はなくなり、より大きな世界へジャンプする。ようなことが起こる気がする。

わたしという人間はすべてが中途半端で、見ようによっては痛々しいだろうが、
なにものでもないからこそできることがある。

なにものでもないから、誰とでも話せるし、なにものでもないから、みんなでありうる。

それが、わたしにとって生きる、ということであり
そんなふうにしてこれからもずっと、夫との途切れた対話を続けていくのかもしれない。

時折、わたしは自分が夫の望むような完全な人間ではなかったことをひどく悲しく思うが、彼自身不完全であったからあんなふうに死んでいったのだし、不完全であったからこそ夫婦だったのだろう。

だから夫との対話は、自己の不完全性に対する、救済や許容あるいは解放ーのような意味合いを持っている。

岡倉天心は「茶の本」において
われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである

と自らを記述したが、お茶に限らず誰のやっていることも、結局はそういうものに行きあたるような気がする。

物事の限界において、自己が超越される。
有限が無限になり、善悪の果てに宇宙が立ち現れる。

そこに道が現れ、生命があふれる。

願わくば、共に歩む過程で、同じように息子の中にも道ができてゆきますように。
by terasumonnmoku | 2013-01-25 20:59 | 家族 | Comments(0)

スピリチュアルアーティスト/セラピスト/時々社会活動 前過労死等防止対策推進委員。勝手に自死防止活動推進中。スピリチュアルとリアルをアートで融合し、人の繋がりの力で新しい世界の創造を目指しています。

by terasumonnmoku