わたしたちの傷について、どうあればいいのか。

ひさびさに、考え中。
悶々としています。

もんもんもん。

どうしたものか。
傷について、どうしていいかわからない。

自分になにができるのか。
なにかしたいと思うこと自体が、違うかもと思ったり。

日頃大変お世話になっている自死遺族の会の会長さんは、
「あたしに関わった人は、みんなどんどん元気になるって決めてるの。洗脳しちゃうのよ!そうするとほんとにそうなるから。」

というけど、
全然自信はない。
というより、元気よく無理!といいたい。

でも、なにかはやるんだろうな。
やって、だめだったら潔くあきらめよう。

傷そのものは、それぞれの問題なので、そこをどうにかする必要もないんだろうし。

このところやる気を失っていて
いまでも頭の上に「やだやだまん」が載ってる感じ。
このまましばらく、やだやだまんと一緒にいるのも、いいかもね。

わたしは自分自身の「悲しい」とか、「辛い」とかいう感情に、ほとんど関心がなく、
いままでなるべくそういうゾーンに立ち入らないようにしていたけど
それってやっぱり、自分がきつかったからなんだろうな。

人の悲しみを見るだけで、力が失われていく感じがする。
だからやる気も減退しているんだろうな。

これではいけない。
次回からは、あのひとは、わたしにかわって泣いたり、
怒ったりしてくれているんだ。と思うことにしよう。

というか、その悲しみが逃げようもなく、
まさに自分自身の感情そのものであることを認めよう。

認めるって、すごく難しい。
きっと怖いんだと思う。

かつて自分が問題を抱えた当事者なのに、
そのために存在する国分町駆け込み寺にダイレクトに相談に行けず
たまたま参加したボランティアミーティングで、
どさくさに紛れて玄代表に悩みを聞いてもらった
ような情けない経緯を思い出しても、
向き合うことに大きな抵抗がある。のは、ぼんやりわかる。

最近になってようやく、自死遺族であることが、わたしのすべてではない。
と思えるようにもなってきたけれども、
自分=夫に自死された妻=人間失格的な感覚でしか、
自身を捉えられなかった時期が、ものすごく長かった。

虐待されて育ったこどもとか、DVを受けた妻とか、あるいはパワハラを受けた当事者もそうだとおもうが、ある限度を超えた時、受けた損傷の大きさに客観性を失い、問題と自分を分けて考えることができなくなる段階が、誰にでもあるのだろう。

現実を受け入れ、自らが当事者であるという意識を持って、初めて立ち直りが始まる気がするけど
その過程は人にも状況にもよるし、一気には進まない。
もどかしいけれども、省略することもできない。
これが普通で、健康で自然な成り行きなのだろう。

自分の悲しみを恐怖する、なんておかしいけど、
ほんとに怖いんだからしょうがない。

それでいい。それがいい。
そんなふうでいながら、自分をやっていけばいい。

泣きながら怒りながら、笑える時に笑っていればいい。
なんかー、うまくいえませんが。

昔、上司と喧嘩して、住むところも職も一気になくして
積み上げた段ボールの下で、わんわん泣きわめいていたとき、

「おまえ、泣いてるけど、なんか平気そうだ。
大変なことになったのに全然だいじょうぶそうだ。」
と、結婚する前の夫に妙に感心されたのを思い出します。

そういうの、意外と好きだったんだろうな。
そのときのわたしは、めっちゃかっこ悪かっただろうに、
そこを責めずに肯定することで、励ましてくれたんだろうな。

自分のことはゆるさなかったのに、
他者に関しては、不思議な許容の仕方をする人でした。






















 
by terasumonnmoku | 2013-07-12 22:08 | 最新情報 | Comments(0)

真理セラピスト・らくがきすと・即興ピアニスト+社会活動家(過労自死遺族/東北希望の会代表)幼少時より、生と様々な死から多くのことを学んできました。11年のセラピスト経験があり、仕事ではいのちのすばらしさについての、エナジーーワーク的なセッションやワークをしています。頭を現実的に使いながらメルヘンな世界を実現させていきたい。社会問題、スピリチュアルな仕事や宇宙のこと、日常について書いています。


by terasumonnmoku