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artandlove☆もんもく日記2

お誕生日。

先日、夫の学生時代のお友達がお2人も!はるばる北海道から、
お参りに来てくださいました(^○^) 

これだけ時間がたった後も、彼を思ってくださっていること。
お忙しい日々の合間を縫うように、遠くまで訪ねてくださったことが、ほんとうに、うれしいです。

お友達がいらしている間ずっと、家の小さな仏壇の前で、夫がにこにこと笑っている気がしました。

自分の行為が家族だけでなく、たくさんの人を傷つけたことを
きっと本人も後悔していると思います。
だから、姿は見えなくても、みなさんにご挨拶できる機会があることが
とてもうれしいに違いありません。

夫の元気いっぱいだったころの話をしたりすると、涙があふれるけど
大切な人が亡くなって悲しいのは当然で、
素直に泣ける機会があることが、ありがたい。

とうもろこしは、まだ父親の死が受け入れきれていないようで、
こういうことがあるたびに激しく消耗するけど、
それでも、ひとつひとつ、向き合っていくことが、大事なのだと思います。

自死・過労自死という理不尽な死を受け入れること。
そして亡くなった家族とともに、残された人間が、
その喪失によってより深い生を生きていくためには、
直接の当事者である、とうもろこしやわたしのような、一つの家族だけでなく、

同じ思いをしてきた遺族や
お友達や、わたしたちを支えてくれた、たくさんのみなさんと、
思いを共有することが必要なのかもしれません。

すこしずつ、すこしずつ。進んでいこう。

そのあとですぐわたしの誕生日が来て、
半年ぶり位に夫のお母さんからメッセージをいただきました。

カレンダーにわたしの誕生日がメモしてあること。
プレゼントを送ってあげたいけど、しきれないこと。などが
柔らかく書かれていて、

彼のお友達がお参りに来てくださって
本人もきっと喜んでいたと思う。という返事を出すと
なつかしい名前を聞いてうれしかった、という返信が返ってきました。

いろいろな時に、いろいろな気持ちが交錯する。

それはいいことでも悪いことでもなく
ひとと「かかわる」ということは、最初からその全部を含んだことなのでしょう。

そういうことがあって、ちゃんと悲しんで、ちゃんといろんなことに向き合おうと思い、
手始めとして、ずっと放置してあった車を、ついに車検に出すことにしました。

もう車検は半年前に切れていたのに、
わかっていながら、
車のこととなるとどうしても、体が動かず、そのままに。

オイルをいれておいて。というのが
夫のわたしへの(とうもろこしのことを除くと)最後の指令で、
それをするだけで、一年かかり
車には大変な負担だっと思います(T_T)

どうにも身動きが取れず、車を購入するときにお世話になった大学関係の方に連絡を取ると、
業者さんに、すぐに事情を話してくださり、瞬く間に車は工場に引き取られてゆきました。
助けられて生きていると、実感します(T_T)

もうひとつ、夏にしこりを発見し、そのまま放置していた乳がんの検診にも行ってきました。
幸い異常はなく、一安心したものの、半年近くも見て見ぬふりをしていたことを、猛反省しました。
とうもろこしは、やたら夫とわたしが死ぬ夢を見るのです。
そういうこともあって、怖かったのかも。

そんなこんなで、過ごしたお誕生日は
ひろみんや両親や、妹や、息子の家庭教師の先生や嫌がる思春期の息子からも(笑)
バースデーソングを歌ってもらって
たくさんのみなさんから、メールや、FBのコメントや、メッセージを頂いて
ほんとうに最高でした。

世界は愛に、満ち満ちている。

最近、少しずつまた本が読めるようになり
(生来大変な本好きだったのに、何年か前から全然読めなくなっていた。)

何日か前、自身もキューレターの経験のある原田マハ著の「楽園のキャンバス」という、
アンリ・ルソーをめぐるミステリーを読んでいたら、

読み進むうちに本の表紙の、ルソーの「夢」という絵から、
ジャングルの草いきれの匂いがしてくるような気がしてきました。

画面に立ち込める濃厚な空気が、何かに似ていると思い、考えてみると、先日お友達がいらした時に、わたしたちの間に存在した「透明でとっぷりした悲しみ」にそっくりでした。

悲しみは、愛。と遺族の先輩はよく言います。
だから、悲しくて当たり前。

それを思い出して、これは愛なのか。と思ってみていたら、だんだんだんだん画面の中に漂う「悲しみ」が
生命というか、空気中に横溢するプラーナのように感じられ始めました。

生きてるんだ。

これが生きているということなんだ。

などと思いながら
物語を読み進むと、最後のきめの部分でまさにそれふうなことが書いてあって
笑ってしまった。

生きることには、はじめから喪失を前提とした悲しみが含まれている。

僅かな生の時間の中で、

(喪失の)悲しみの土台であり
悲しみを包摂し、絶え間なく立ち上っていくことを「生きる」といい、

同じものを

ある時は「愛」と、

わたしたちは呼ぶのかもしれない。
by terasumonnmoku | 2013-11-20 18:15 | Comments(0)

スピリチュアルアーティスト/セラピスト/時々社会活動 前過労死等防止対策推進委員。勝手に自死防止活動推進中。スピリチュアルとリアルをアートで融合し、人の繋がりの力で新しい世界の創造を目指しています。

by terasumonnmoku