2014年 09月 06日
児童虐待的透視能力と死後の魂☆
みなさまいかがお過ごしですか?
きのう、大好きな大津先生のセミナーがあり、周りの状況は何も変わっていないにも関わらず
元気だけはいっぱいの、てらすもんもくです(笑)
以前から、虐待やDV被害を受けて育った人に関わることが多く、自分的にもそういう背景を持っているひとに、シンパシーを感じるのを不思議に思っていましたが、最近、謎が解けました。
なんのきっかけもなく、
ことを繰り返す日常というのは、
子どもにとって、虐待を受けているのと
そんな気持ちになる理由が見当たらないので、
自分が悪いと思ってしまう。
(300年前の武将の恨みとかの形が見えれば、そのせいにできたのでしょうが、わたしはもともと、波動としてしかものごとを探知しておらず、感じることを翻訳するために、経験と訓練が必要だった。)
自分の存在そのものが、申し訳ない。
と、何度思ったかわからない。
親だって、子どもを選べないのに。
成人後も、極度に情緒不安定な自分をもてあまし、
その理由を親に求めて「母と言う病」的な
リアル虐待系の人と違うのは、
そんなことにはかかわりなく
エネルギーは予測不能な形で容赦なく
どれほどひどい罪悪感の中で
過去の自分が愛おしい。
というわけで、
未だかつていいと思ったことはありませんでしたが
最近になって、ちょっといい。
なにより大きいのは
どんなに「見える」能力があったり、
たとえば、彼が
動揺する余地がない。
生きている人と死んでいる人の間には、
もちろん、家族としては全然違うし、
少なくとも、魂的にはそうです。
夫は確かに自死と言う間違いを起こし、
亡くなった人を、
それでも遥かに(魂が)立派なことには違いない。
おかしなことを言う人たちより、
(肉体がない分、大変そうだけど)
夫だけでなく、自死したほかの方に関しても、
とはいうものの、それはあくまで
同じ遺族であっても、
当然と思うものが人によって違うので
それぞれが、それぞれに思っていくしか
今まで自分を特別だと思ったことはなく
ひとに羨ましがられることが疑問でしたが、
経験が増え、自分の世界が広がるとともに、
それぞれに、豊かなものを、
悲しみのすべて、抱えている困難のすべてが、愛。
そんなことを考える秋の一日。