ゲルニカとボッティチェリの二枚の絵(二元論を超えて)

東京都美術館へ、ウフィツィ美術館展を見に行く。
ウフィツィ美術館はフィレンツェにあり、若かりし頃に一度現地で見たことがある。

当時はとにかく自分がネガティブで、
常時6,7体の幽霊をくっつけて歩いていたので
見るものすべてが暗かった。
綺麗に見えるものは、アートの
限定された一部しかなかった。
ボッティチェリの「春」は、その重く暗いブロックをものともせず
魂に飛び込んできてくれた、稀有な作品の一つ。

今回の展覧会では「春」はなかったが
ボッティチェリの作品が年代ごとに5つくらいならんでいて
その変遷がとても面白かった。

特に好きだったのが「聖母子と洗礼者ヨハネ」という絵で
赤ちゃんのキリストをヨハネに渡そうとしているマリアの姿が
後のキリストの磔刑を想起させる構図で描かれている。

そのすべてが、調和に満ち、美しい。
ボッティチェリにとって、キリストの磔というのは
悪でも非業の死でもなく
一連の奇跡につながる美しいピースの一つだった。
ということが、絵の中から静かに伝わってくる。
愛と悲しみと聖性と救いが、無数のきらめきを放ちながら
光の波紋のように立ち昇る。
(こういう動的なオーラが、印刷されると消えてしまう)

ところが晩年、メディチ家が没落し、カルトな宗教指導者がフィレンツエの実権を握ると
その静かな調和と輝きが見事に姿を消し
まるでジョン・フォードの時代劇のような光景が
絵の中に現れる。(加筆されたせいもある)
それはキリストとキリスト教が絶対的な善であり
他のものは存在さえ許されない。ような強烈さの漂う
ばりばりの二元論の世界だ。
陳腐でもある。

「聖母子と洗礼者ヨハネ」に存在するボッティチェリの調和は、
ピカソの「泣く女」や「ゲルニカ」に通じるものだったのかもしれないな
と、それを見て思う。
描かれた対象から、「意味」が剥奪され、
「調和」の前にひれ伏している世界。

普通の人間としては、自分の子どもが磔にされることを予感しながら、
あれほど静かに清らかにあることなどありえないだろうし
愛する女の「悲しみ」や「苦しみ」。「戦争」の暴力や傷を
楽しげに描き出すピカソの感覚だって、全然わからない。

でもその世界はそこに在って、わたしはボッティチェリに美を感じ
ピカソには「生命のよろこび」を感じるのだ。
じゃっかんの罪悪感に刺されながら。

ボッティチェリは見た目がまだきれいだからいいが
ピカソは破壊的である。

彼が関わった女性は、一人を除いてみんな発狂したり
自死したりしているが、
夫の浮気相手と泣きながら掴み合いをしている光景を
当の夫に感情の流れごと、嬉々として描かれたら
おかしくもなるだろう。

二元論を超えた世界は
時としてそういう残酷な表れをするものであって
受け取る側としては、わが胸の内にある意味の残滓に
抵抗を示しつつも受け入れざるを得ないような、
複雑にして微妙な気持ちになるのだが

どんなに葛藤している時も、
どんなに暗く深い淵に落ち込んでいる時でも
彼らが淀みの中のわたしを突き動かし、
後々まで続く鮮烈な影響を与えたことは間違いのない事実だ。
それほど調和と言うのは
生命にとって、大きな影響力のあるものなのだろう。
だから自分もそこをめざして、いくしかない。







by terasumonnmoku | 2014-11-05 19:58 | アート | Comments(0)

宇宙真理哲学講師、らくがきすと、即興ピアニストぷらす社会活動家(過労自死遺族当事者)働くことから世界を変えるをモットーに、さまざまな活動をしています。合言葉はREBORN.大事なのは、生きることだ!


by terasumonnmoku