樹になって遊ぶ。

友人のかなちゃんが、ちょっと早めのお誕生日のお祝いに
仙台市博物館の「樹木礼賛ー日本画に描かれた木と花の美」&
すてきなLunchにご招待してくれた(^○^) 
なんてHAPPY\(^o^)/♪
かなちゃん、ありがとう!!!!!

この特別展の目玉は、円山応挙の描いた国宝 雪松図屏風で
これを見るだけでも、出かけた甲斐があるほどの逸品w( ̄o ̄)w
なにがすごいかというと、格の高い松の、個性を持った生命の力が
躊躇なく、そのままに描き切られていること。

ふつう、絵に描かれている木は
うまく言えないけど、「その木」ではないし
生命のあるものですらない。
存在の影というか、形だけをなぞって中身のない、
タッソー夫人の蝋人形みたいな感じ。

同じ場所に生える、同じ種類の木であっても、一本一本波動は異なり
魂の格のようなものが、全部違う。
でも、それを描き分けられる人はほとんどいない。
波動が見えないせいもあるだろうし、
見えたとしても、
描く人にそれなりの魂の深さや精神力がないと、
例え見えても、描くことができない。
ということが、起こる。
存在感に負けるのだ。

でも、この円山応挙の「松」は違う。
崇高に、生き生きと、自分の意志で世界を生きている。
それも、ライブで。

小さいころ、森のお気に入りの樹の前に座り
樹と一体化して遊ぶ。ということをよくやっていたのだが
応挙の松は、その頃のわたしのお気に入りの樹にそっくりだった。

でも、見ているうちに
徐々にそっくりさは薄らいで行き、
わたしが好きだった樹よりその松はずっと若く
水分も多く、波動も軽やかで
結局似ていたのは、「圧倒的な存在感」と言う部分だけだった。
いずれ強烈に惹かれたことには違いない。
久々に樹になって遊び、超健やかな気持ち(笑)

ちなみに、いまでも当時のお気に入り樹をわたしは覚えていて
会いに行けばすぐそれとわかるし、
その樹とほかの木が波動的にどう違うかも説明できるけど
その樹の名前も、どんな葉っぱを持っていたかも覚えていない(T_T)
わかるのは、それが松じゃなかった。ということくらい。
当時からかたちは全然認識していなかった(T_T)

それにしても、日本画や、日本人の感性と言うのは不思議である。
西洋の油絵などで、樹木が主役になるというのは
ちょっと考えられない。
西欧の人たちにとって自然と言うのは、あくまで人間の背景、環境、道具にすぎないんだと思う。

屏風に描かれた松島の風景だって
どう考えても、空中に浮かぶ巨人の視点から描かれたとしか思えないような構図で
描きたいものを、描きたいように描いているとしか思えない。
なんだかすごく自由。

昔々の日本ではたとえば村で、みんなが理解できないような珍奇な物事に熱中する人を
「奇人」と定義して、別枠で放っておいたり
(だから、宮澤賢治や南方熊楠みたいな、とんでもないひとが時々でたのだろう)
平安の貴族が落ち込んだとき、
部屋に「物忌み」と張り紙をして
おこもりをする。
ようなことが認められていたという記述を本の中に見つけるたびに
そういう、家の中の「縁側」的な逃げ場が、
集団になくなってきたことが
いまの全体の生きづらさの元になっているんじゃないだろうか。と
たまに思う。
日本人はもともとすごくおおらかで、自由なひとたちだったのではないだろうか。

それはともかく、応挙の松はすばらしい。
仙台市博物館のこの特別展は9日までですが
普段は東京日本橋の三井記念美術館というところにあるそうなので
興味のある方はぜひ見てね!



by terasumonnmoku | 2014-11-07 11:23 | アート | Comments(0)

宇宙真理哲学講師、らくがきすと、即興ピアニストぷらす社会活動家(過労自死遺族当事者)働くことから世界を変えるをモットーに、さまざまな活動をしています。合言葉はREBORN.大事なのは、生きることだ!


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