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artandlove☆もんもく日記2

シンポジウムを終えて②過労死の防止より、遺族支援に目が向く点について。

FBへの投稿記事。
この問題への投稿としては、反響が大きかったものを転載しました。
コメント欄でのやりとりも大変有意義でした。

コメント欄でいただいた「やはり遺族支援に目が向く」というご意見に
わたしは一生懸命反論していますが
本来は、いちいち反論しなければならない時点で
プレゼンとしては、失敗であり
本来こうしたシンポジウムに参加することで

誰もが、ダイレクトに防止
あるいは、
健全な職場環境の構築
のほうに目が向く活動。
が、必要なのだと思っています。


ただ、どんな方法を取ったにしても、

人の命が仕事の問題で
次々と失われている現状は 
きっちり伝えていかなければならず、
そのへんのバランスはよくよく考える必要があります。

だからこそ使える方法があるはず。

そこに至る道を、探していこう!

(以下本文)
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シンポジウムを終えて②過労死の防止より、遺族支援に目が向く点について。_c0195362_14370996.jpg


ふと思ったこと。

過労死・過労自死防止について、遺族として活動していると言うと、なぜかまず、

遺族支援をどうするか?


と言うところにほとんどのひとは目が行くようです。


希望の会は、遺族同士の自助と、
専門家や一般支援者による社会的支援を組み合わせた活動ですが、

家族の死による痛みをケアしたり、それをどう受け入れるか。
についてを「支援」することはなく、また、それを外部に求めてもいません。



大事なひとの「死」を、どう受け入れるか。
あるいは、自分の苦しみにどう向き合うか。


と言う問題は、


ケアや医療の対象ではなく、

宗教や、哲学に属する課題であり、
一人ひとりが自分の人生をかけて向き合っていかなければならない、
極めてパーソナルなもの
だからです。

現在の風潮としては、そこに大きな誤解があり、
そこから、たくさんの悲劇が生まれているように思います。




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シンポジウムを終えて②過労死の防止より、遺族支援に目が向く点について。_c0195362_14443031.jpg


★コメント1).シンポジウム大変なご準備の上無事終了されてお疲れ様でした

参加させて頂いた私は

「防止」に着目するのではなく
過労死・過労自死遺族支援に目がいってしまうということを感じました

ご遺族の体験談に関しましては
お話を伺いながら なんどもお話されるために
ご自身の体験を反芻されたことを思うと
私は同様の痛みを感じてしまい 正直
辛かったです

そのことが一番印象に残ってしましました

★前川)そうなんですよね(´・_・`)


残念ながら、それは遺族には負担でしかない。


命が失われた場合、それを取り返すことは誰にもできないからです。

きついのになぜ、あえてこんなふうに遺族が傷をえぐるようなことをやるかというと、
亡くなった家族の命に、意味を見出すためです。

だから、防止活動が実ることが、ひとによっては最高の支援になる。

なので、
そこから防止のほうに目を向けてもらうために、今回は、大変な努力を行いました。

今回のイベントでは、それが実っているとはとても言えませんが、
個人的には、あんべさんのご助力もあり、かなりな前進ができたとおもっています(^_^)



★コメント2
).対個人の問題ではなく、対社会の問題として捉えることができるといいんだろうけど。
最初にイメージできるのって、対個人の出来事だからそこにフォーカスしちゃうのかも。
わかりやすいストーリーがあるといいのかな


★コメント3).例えば。個人がシリア難民を支援するのは比較的容易だけれども、アサド政権を倒すことはかなり困難、ってことなんじゃないかと思いました。でもアサド政権が続けば難民は増える。防止ができなければ次の悲劇が起こる。問題の根本と戦うために個ではなく連帯を広げていくことなんですよね。




追記
:この記事の下書きをした後、連続で、息子さんを亡くされたばかりの、あたらしい過労自死遺族の方々(複数です)とお話する機会があり、
あらためて自分に向き合わざるを得ない状況になりました。

その結果、この記事を書いたとき、周りの方々の視線が「遺族支援」に目が向くことが
負担で仕方が無かった理由が、
「遺族だからって、人から<かわいそう>に思われたくない」
という自分自身の抱える葛藤から来ていたことに気づきました。

人が誰をどう見ようと、それはその人個人の問題で
見られる側の課題ではない。
というのは重々わかっていたはずなのに
同じトラップに引っかかっていたのです。

どこかで自分の状況を、<かわいそう>と認識していたのに違いない。

遺族の置かれる状況の過酷さには猶予というものがなく、
自分の中に<かわいそう>という「ゆとり」があるようでは、
今後、この活動していくことは、できない。

なぜなら、それが、自分が同じ葛藤を通り過ぎてゆく中で
支援者に対し、最も腹の立つところだったからです。
その状況だけで人を判断する、
相手を下に見る。といってもいい。

かわいそうなひとなんかいない。
みんな、尊厳を持った、立派なひとりの人間です。
ただ、悲しみという名前の愛と、葛藤と困難を抱えているだけです。

わたしはもう一度覚悟を決めて、自分の中から<かわいそう>の
一切を、思い切りよく捨て去ることにしました。
その人の状況ではなく、どんなときも、その人自身。
その可能性を見ていきます。
<かわいそう>と戦うのではなく、自分自身の価値と、幸福を表していきます。

今は、もう、どう見られても大丈夫。

誰よりもHAPPYに、誰よりも元気に
誰よりも真剣に、誰よりも効果的に
思い切り自分の人生を満喫し、
<かわいそう>を鼻で笑いながら活動し、
ハードなことをやりながら楽しく生きていこう。
どこまでも。夫と一緒に(๑'ᴗ'๑)


by terasumonnmoku | 2015-12-02 21:57 | 希望の会 | Comments(0)

スピリチュアルアーティスト/セラピスト/時々社会活動 前過労死等防止対策推進委員。勝手に自死防止活動推進中。スピリチュアルとリアルをアートで融合し、人の繋がりの力で新しい世界の創造を目指しています。

by terasumonnmoku