曾我蕭白。満たされないことによって、満たされてゆく。

曾我蕭白(しょうはく)の龍が好き。
この生の絵をはじめて見たとき、
あまりの迫力にしびれた。

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(ボストン美術館所蔵 雲龍図 部分)

蕭白は1780年代に生まれた絵師。狂人と呼ばれ、
同時代には伊藤若冲、円山応挙などがいる。

蕭白は「本当の絵が欲しければ俺に言え。絵図が欲しければ応挙でよかろう」
などということを言っていたらしい。
応挙の松もすごくいいけど、
蕭白の絵には
それとは異なったよさがある。

人の欲望や狂気を正面から冷静に描き、
当時は不吉の象徴と言われた「虹」を
富士山と並べて金泥で美しく描き出す。

すごく不思議なのは、この鷹に襲われようとしている鶴の絵と

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(波濤鷹鶴図屏風 部分)

腹を空かせてへたりこんだ鬼に、自分を食わせようとしている釈迦の前世の童子の絵で

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(三重県継松寺 雪山童子図)

それはイタチに追われて井戸に落ち
どうせ死ぬならイタチの餌になりたかったと嘆き
神様に自分の体をさいわいのためにお使いくださいと祈り
夜空に燃える星になった。
という宮沢賢治の蠍の話にも通じる
「ほかの命のための犠牲」というテーマで、

同じ現象が、悲痛にもなり、宗教にもなり、どこか悦楽的にも描かれうるということが
目で見るととても斬新。
魂の進化的序列を無理やり付けると
 鷹に追われる鶴<蠍の火<雪山童子
の順で、偉さが増していくのかもしれない。

ほかの存在に喰われる。というただそれだけの現象に
これだけの解釈があることが、たまらなくおもしろい。

先日引用したレヴィナスには続きがあって、
わたしたちを幸福にする全てのもの=糧に対する死活的な欲求は、単なる欠如ではない。
「幸福は欲求の<満たされないこと>によって、満たされるのである」

というふうに展開していくのだけど、

食うものと食われるものという構図の中に
「わたし」という単体を考えるだけでは理解しにくい
満たされない、ことによって満たされていく一連の現象が
とてもうまく描かれているような気がする。




by terasumonnmoku | 2016-03-08 21:48 | アート | Comments(0)

真理セラピスト・らくがきすと・即興ピアニスト+社会活動家(過労自死遺族/東北希望の会代表)幼少時より、生と様々な死から多くのことを学んできました。11年のセラピスト経験があり、仕事ではいのちのすばらしさについての、エナジーーワーク的なセッションやワークをしています。頭を現実的に使いながらメルヘンな世界を実現させていきたい。社会問題、スピリチュアルな仕事や宇宙のこと、日常について書いています。


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