みなさま、お元気ですか?
すごい波動の変化ですね。
わたしは毎日、サーフィンをしているような気分です。
地球、恐るべし。

生命というのはもっと柔らかく、清かに発展してゆくものなんじゃないだろうか。
こんなにドラスティックに変革していって、だいじょうぶなの?と、一瞬不安になったりしますが、だいじょうぶなんだろうなあ。肉体があるから。

最近、わたしにもいろいろなことがあり、真我と自我の識別が、ようやくできるようになりました。
自我を通すと分離が現れ、そこに不幸が立ち上がる。
自我って、シャーロックホームズの掛けていた鼻眼鏡のようです。

すべてはひとつ。改めていう必要もないほど、あたりまえのこと。
鼻眼鏡をはずせばよかったんだ。
(今回かなり広範囲にわたって、鼻眼鏡をはずせるようになりました。
これは簡単です。だってもやもやしたら、めがねをはずせばいいんだもの!)

と、思うようになって、ようやく普通のことが、できるようになってきました(笑)
普通の社会生活や普通の思いやりや。

いままでは、エゴが作り出す、見えない敵(第3の目が発達しているので、その量も半端じゃないのよ・泣)と戦うのに忙しくて、自分が、人生を実際に生きる暇がなかったのです。

生活自体は何も変わっていないのですが、気持ちがものすごく暇になってしまった。
もう、自分で自分を、どうしていいかわからないほどに。

ぽかーん。

というわけで、別になにをするともなく、普通に生きてます。
奇跡のように。

幸せに。

なぜって生きるって、幸せなことだから。
本来とか、そもそもとか、前提なんて一切抜きで。
わたしたちは、そういう存在なのです。

先日、るーしーちゃんの大きくて立派なふわふわの羽を見たときにも、そう思いました。

伝授で大津さんが頭頂から光を入れてゆきます。

こわい。という感覚があって、でもだいじょうぶ、とみていると、みるみるうちにハートを補強していたるーしーちゃんの自我のブロックが決壊し、その瞬間嗚咽が漏れ、一緒にいたみんなも泣き出しました。

必要だと思って、学ぶために作っていたブロック。
ガードするつもりで、逆に自分をがんじがらめにしていたブロック。

愛でそれが溶けていくシーンは、何度見ても感動します。

ほんとに綺麗なのです。

るーしーちゃんの場合、ハートチャクラから赤い、リボン状のぴらぴらしたものが、まるで生き物のように外に出て行ってから魂が光り始め、
そこで
「生きてて良かった!」って感じになったみたい。
(見ていたみんなもそのシーンでは大笑い!もちろん、説明なんかないのにね!)

誰の、どんな魂も、ほんとは光っている。
そして、どんなときも深いところでは生きることの喜びに震えているけど、

自我の意志の力で、自分を見えない敵から守ろうとして、苦しいんだね。

このハートのブロックをはずすって、むやみにやるとすごく危険なのですが、
幸福である自分を受け入れる学びをする、ということを前提にした、魂を光らせる愛のエネルギーだとだいじょうぶのようなのです。

これもヒーリングと同じで、エネルギーの違いなんだろうな。

愛が愛を受け入れるだけ。

どこに働きかけるかがすごく重要なのでしょう。

エゴでその汚れ、とってやる!ではなく、
高次元の自分が、自分を解放しているのとおなじことだから。

だから伝授で、愛の光を受け入れた瞬間、多くの人が「すくわれた」あるいは、「ゆるされた」感覚を受けるんだと思います。

この辺は重要ポイントなわりに、うまく伝えられるかどうか自信がないので、疑問がある場合は、周りの学びが進んでいる人にぜひ聞いてみてください♪
最近、みんな成長しているからお互いに高めあえてすごいいいよね(笑)

というわけで、ちょっとぽかーんとはしているものの、わたしは元気に生きてます。

先日てくてくと道を歩いていて、ああ。こんなに気持ちが良くて幸せな毎日を過ごしていたら、わたし、誰かと結婚しちゃうかもしれない。と思っている自分に気がついて、大笑いしてしまいました。

だってわたしにはすでに10歳になる息子も立派な夫もいるのに、
いまさら誰と結婚するというのでしょう。びっくり!

真我との結婚かな?そうかもね・笑。真我とは結婚してもくっついたり離れたりしていたけど、ようやく、離れるなんてありえない感じ!になってきました。よかった!
by terasumonnmoku | 2009-02-16 11:32 | 最新情報 | Comments(0)

次元の話。

こんばんは!週一更新のてらすもんもくです!
さぼっていた間に、いろいろなことがありました♪

nahoちゃんが再伝授して6の8になったり
くにちゃんが、なんと、いままで拒みに拒んでいた、天国意識(5次元)についにはいっちゃったり、とかとか。。。。。

くにちゃんのその変化はすばらしく、涙が出るほど嬉しいものでした。
(徳ちゃんからのメールには、くにちゃん5に入ったよー号泣。とあったんだよー!わたしも号泣!で返しました・笑。)

おめでとうございます。ここからようやくはじまるね(;。;)

レゾナンス的に5次元に入る、
という言葉を簡単に解説すると、これは大体一日の、約半分を、肯定的なことを考えていられるようになってきた状態、を指しています。

頭で日々積み重ねている思考を、少し注意してみてみるとわかりますが、
ほとんどのひとは、一日の大半を、否定的なことを考えてすごしています。
(もちろんそうでないひともいます。)

これを意識的に肯定的な思考に切り替え、明るく楽しくすごすことをしてゆく、明るい人と一緒にいる。指導を受ける、などなどの努力によって徐々に変え、

5次元(天国意識)に入る。と、外見が明らかに変化します。

彩度が上がるし、きらきらして明るくなる。
そしてライトボディが作られ始める。

6はもうすこし落ち着いた感じ。明るいんだけど明るさの粒子が細かい。

でも、愛に中心が定まるという、悟りの別の大きな段階である6の8って、どう変化したか間近に見ても全然わかりません。

それはともちゃんのときもやっちゃんの時もそうで、6の8になる、というのはエネルギーフィールドが大きくなったり、色が鮮やかになる、というようなことではなく、もっと根本的な部分が変化するのかもしれない。

これは想像ですが、切断された魂のコードが、つなぎやすいように一部励起する・・・とか。
(こんど大津さんに聞いてみよう!励起するってなんかぴったりな気がするんだけど、コードっていうのは違うかもね。)

共通するのはどの段階でも、波動が上がれば上がるほど、一緒にいるのが楽になる。ということ。
それはたぶん、本人が楽になってきているからなのでしょう。

ほんとうの自分に近づいているから。

波動が上がる、というのは本来の自分にもどっていくということを言います。
「悟る」というのも意味はおなじで、悟りにも段階があり、悟ることによってまたその先に道ができてゆく~という感じかな。

ところで話は変わりますが、最近わたしのマイブームは、番長清原のように肉体改造。

なぜかというと、今我が家では、運動が大流行なのです。

ダーリンにくっついてスポーツクラブに入ったので、今はひたすら運動してます。
でもわたしは基本インドア派だし、部活の経験もないので、これは極めて珍しい。

そもそも肉体感覚がないので、学校の授業の体育(それもあまりにも嫌いで、レポート提出でしのいだこともある)以外の運動なんて、ヨガしかやったことがなかったのです。

スポーツクラブに入った日に、
興奮のあまりアクアビクスとエアロビクスとナチュラルヨガ(ヨガだけで4種類以上コースがある)というクラスを三つ続けて取ったら
それまで運動で汗をかく経験をしたことのない身体が悲鳴を上げ、あっというまに筋肉がぼわぼわになってしまいました。

まるで、全部の骨の折れた傘のような気分です。

からからと、筋肉が風に揺れている・・・・・。

そういえば、アロマオイルを最初に知ったときも、気をつけるように言われていたはずなのに、うれしくてマッサージからなにからできることを全部したら、翌日ものすごい肩こり頭痛腰痛に見舞われ、大変苦しんだことを思い出しました。

人間の身体って、やりたいからといって、やりたいことを全部やるようにはできていないのかもしれませんね。。。。

というか、いい加減学習しろよ、自分。みたいな。。

でも運動すると身体の感覚ができるし、身体の感覚がわかると、
人としての輪郭設定もできる。

ひいてはここで人として機能することが容易になるはず。

身体って、作業場、メモリー、わたしがわたしとして仕事をする場所。みたいな感じなんだろうなー。身体があるって、おもしろい。
by terasumonnmoku | 2009-02-12 22:38 | 最新情報 | Comments(2)

ライトボディの誕生♪

何かが動き出しそうな、もう動き出しているのにまだ表面には現れてきていないような、そんな不思議な雰囲気の時間をすごしています。
みなさまはお元気ですか?
今日この地方は雨でした。
一日中霧のような雨がふっていました。
皮膚呼吸が楽にできそうです。

先日レゾナンスセラピーの事務所へ、仲間のHeartさんのセラピスト伝授(詳しくは及川徳子さんの<波動日記>をご覧ください!どこかにタグがあるはず!)に行ってきました。

びっくり仰天でした。

わたしはライトボディが作られてゆく瞬間を、初めて目撃してしまったのです!

椅子に掛けたHeartさんの頭に軽く両手を添えて、大津さんがエネルギーを入れていると、ややしばらくたったある時突然、Heart さんの足元に、黄色に緑にライトオレンジに、透き通るようにきらきら光る光の身体が構成されはじめたのです。

光の身体が立ち上がる。

わあ~!と、わたしが呆気に取られて見ていると、今度は、
頭のてっぺんから金色のクリシュナエネルギーが注入され、第一チャクラの更に二個下辺りの足元のチャクラまで、円筒状に光が降りていきます。
更にそこから頭頂に向かって、再度溢れるように光が満たされ、それはまさに充填された!という面持ちになったのでした。

驚いたことに、その金の光がライトボディを満たしながら上に上がってくる最中に、
ぼぼぼぼぼぼ!とクイズ番組のように、わたしのマルチビジョン内の電光掲示板(いつそんなものができたのかはわかりませんが・笑)の、右横のライトが6個点灯し、あ!いまHeartさんが6に入った!という瞬間が、わかってしまった。
(Heartさんはこの伝授で一気に6の4になったそうです!おめでとう!!!!!!!!!)

セラピスト伝授はもう何度も目にしているのですが、こんなにはっきりくっきりとライトボディができるところを見たのは初めてでした。
(見える場合もあるのですが、ほとんどはぼんやりしたエネルギー対流のようです。流れの向きは一緒ですけど。)

いつもは岩場のダイビングのように、エネルギーを一生懸命、その人の創っている抵抗を潜り抜けながら入れて行くのに、大津さんは上機嫌で、伝授中に駄洒落も出ます。
(その抵抗は、あたかもバンアレン帯の隕石群のようです。隕石群が多ければ多いほど、大津さんの疲労度も深くなるもよう。)

最初の状態は、みんな大体同じなのに(5に入っているという意味では)、
受け入れるか抵抗するかで後の状態がまったく違ってくるなんて、ほんとうにびっくりです。

全てを投げ打ち、全てを受け入れるという気持ちひとつで、エネルギーの受信情況にそれだけの違いができちゃうなんて!

わたしの視覚は三次元的にはあまり機能していないので、たぶんずっと一緒にいなければ、同じ人だとは思えなかったかもしれない!というほど、その後の違いようは見事なものでした。

いやあ、ほんとうに、すべてはみんな自分で選び、自分で作っているんですね。
わたしの個性の傾向として、その人のエネルギー状態があたかもその人自身をあらわしているように、勘違いしがちなのですが、
あくまでもそれは、その人がその時点で自分自身ををどう思っているか、ということを示しているだけだったんだな。
原因ではなく結果を、あたかも真実であるように受け止めていたのです。

原因は、そうしようとおもう自分。わたしたち一人ひとりの中で、生きて呼吸する、創造主である神にあったのに。

真我はなぜそんなに自由なんだろう。と思うと、驚くばかりです。
いくつもの段階に分けて、こんなに何でも作れちゃうなんてすごすぎる。
作られたものをいくら見ても何も変わらないはず。
わたしはそれをなんとかしたいと、ずっと思ってきたんだな。

ということを教えてくれて、ほんとうにありがとう!

もうセラピスト伝授を受けられるひとは、オープンな心で伝授に向かい、どんどんライトボディを作っちゃいましょう☆
世界のきらきら度が、ぐっと増しちゃいますよ(笑)
by terasumonnmoku | 2009-01-23 19:24 | 最新情報 | Comments(2)

意味の果てに住む。

こんにちは!今週も、はじまりました。

鏡開きをしようと思っている間に時が立ってしまいました。
餡って、どうやって作るのかな?と考えていると、友人が突然作り方を教えてくれました。
感謝です。
というわけで、わたしは今、生涯で初めて小豆を煮て、餡を作っております(笑)
画期的だ!

ところでみなさま、今のご機嫌はいかがですか?ハッピーに暮らしてますか?

いろんなことがあるし、調子は日ごとにそれぞれだけど、この瞬間に限ってしまえば、ハッピーでいるのは簡単です。

お日様がまぶしいから。
餡がおいしくできたから(笑)

でも時として、凹んだり、ハッピーじゃない気分だったりするのは、頭の中でこねくり回している、物語のせい。
あるべきすがたに、自分や周りがはまっていない、ということに、いらいらしているに違いありません。

あるべき姿を求めると、そうでない姿もできてしまう。
人やものや関係のありように、理由や意味を求めると、どうしてもわたしたちは苦しくなります。

なのにどうしていつも、意味を探すんだろう?

自信がない上に、それを誰かにもらうものだと、思っているせいかな。

そんなものなくたって、すばらしいのに。
理由がなくても、全然困らないのに。

かたちがないものが欲しくて、かたちを求める。という矛盾です。

いずれにせよ、答えは自分が握っているのです。

近頃のわかったこと。

1)真我で生きるということは、まるごとそのままがすばらしいわたしを、ただひたすら、体験し続けるということ。

2)すべてを受け入れることと、すべてを手放していることは、同じだということ。
(ーそれが無限に大きく無限に小さい状態でもある)

3)まるごとですばらしい、を表現する、あるいは受け入れるために、特定の形は必要ではないということ。

形は珍重されるべきものでもなく、無視されるものでもない。

それはエネルギーと同じように、わたしたちが生きて、自分を表現するための、有益な手段です。

最近気づいたのは、ひとは、どうやら、エネルギーや波動が、もの、そのものにくっついている、と思っているらしい。と、いうことでした。

だからこれだけ多くのもの、これだけたくさんの形が必要なのでしょう。
だからこそ、目に見えない、それなしでは生きられないほどに大切なもの、をシェアするために、どうしようもなく物、それ自体が必要になってくるのです。

三次元の世界は、ポケットがものすごくいっぱいあるビリアード台みたい。
不思議なものに不思議な重要性が付加されている。

いろんな場面でいろんなふうに、わたしたちはこのイリュージョンにトラップされています。
たくさんのこうでなきゃ、に規定されて。
それはきわめてシンプルな仕組みなんだけど、一見とっても複雑そうに見えます。

物に誰かが付与した意味を、尊重する必要はあるが、意味そのものを共有する必要はありません。

最初の動機さえきちんと立てていれば、意味なんていくらでも創り出せのです。

住所は番外地・幸福。

わたしたちの家は、意味の果てに建っています。
by terasumonnmoku | 2009-01-19 12:25 | 最新情報 | Comments(2)

福助を育てる

前々回の日記で、三次元のわたしである福助のことを書いた。これを育て始めて、みんなの福助のことが、ようやくわかり始めた。

福助、というのは「人から見える自分」と思っている自分。である。

ゆえにある種の公共性を持っている。

手紙に多用される「大変お世話になり、ありがとうございました。お体お大切に」のような、一般に通用しやすい形。

でもひとはいろんな風に見られたいと思っているので、いろんな形が流通している。
見られたい、ばかりではなく、そもそも的に完全に自分のキャラを勘違いしている人が、ほとんどである。

本当は強引なのに、シャイだと思っていたり、プライドが高く、あまりに多くを自分に要求するがゆえに、だめ人間。と思い込んじゃったり。愛しているのに素直にいえなくて、憎んでしまったり、わたしのように怖がりで小心であるがゆえに人を威嚇していたりする場合もあるので、始末に終えない。

威嚇、といえば、最近あまり偉くなくなってきたせいか、いろんなひとに、いろんなことを言われるようになった。それはどちらかというと教育的指導、や、だめだしのようなもので、以前から自分ではよく言っていたが、人から言われることはほとんどなかったのだ。それを思うと隔絶の感じがする。

ほんとに威嚇してたんだなあ~。。。。

なにか言われてもほとんど気にならなくなった。
前は誰かに言ってもらうたびに、そんなもやもやしたエネルギー状態の人に言われたくない。と一々思ったり、言ったりして、逆切れ状態になっていたが、そういうこともなくなった。

そのひとにしてみればそう、なんだからしょうがない。

わたしの福助はとても素直だ。

おもしろいことに、自分が自分の福助を認め始めると、人の福助がよくわかるようになった。
そうか。存在が薄まったときに活躍していた徳ちゃんは、福助だったんだな。とか。
ほとんどの場合、機能するのは福助だけでいいんだ。とか。

みんながいっている、その人が言われたいことを返してあげる。ということの意味がようやくわかるようになってきた。
福助はとっても便利。わたしは福助使いの達人になるのだ。

目指せお地蔵さん、としては、なるべく余計なことを言わず、ひっそりする練習をしよう。
そしてそのひとが、自分をどう思っているかを聞いてゆくのだ。
みんなが自分をどう思っているか。みんなが周りをどう思っているか。そしてそのひとが自分の分離感を手放してゆく過程で、愛をどう受け止め、あらわし、学んでゆきたいと思っているのか。

みんなに教えてもらって、わたしの福助は、すくすくと成長するであろう。

今までの人生で、人間らしい感覚がわからない。苦手だわ。とずっと思ってきたが、考えてみれば、人間が苦手、なんて変な話である。
やろうと思ったからには、できるはずなのだ。
どんなひととでも、どんなふうにでも、楽しく語り、気を配り、それなりにゆるく関係を結び、真理の話が必要な人には真理が語れるはず。

失敗が怖いから、なるべく得意なことしかしてこなかったし、苦手でもやる、と決めていたからいろんなことが苦痛だった(苦手、と決めてやるんだから当然)けど、別にそんなこと思い込む必要はなかったのだ。

やる場所に自分がいて、そうすることが必要なら、どんなことでもわたしはできる。
楽しく、自分らしく、みんなと調和して。

失敗しようが傷つこうが福助はただの福助なのだ。
誰にも本質を傷つけることなんてできない。
身体は壊せても、魂は壊れない。
以前は自分で自分を傷つけることはできる、と思っていたが、そうではない。

高いあるいは深い部分のわたしたちには、苦しみという設定がない。

十字架に架けられたイエスが言っていたのは、そういうこと。

もともと傷ついていないんだから、癒される必要はない。

(イエスの言葉については過去ログ、イエスとエルコ参照ください)

一歩前に出よう。そして歩き出そう。最初はちょっとどきどきするけど、歩き始めればきっと風景が変わってくる。

というわけでおしまいです。またね。
by terasumonnmoku | 2009-01-15 20:36 | 最新情報 | Comments(2)

クリシュナ

師匠である大津さんの波動が変わった影響か、細かいところで変化が起こっている。
カフェスタは不調になり、台所の湯沸かし器は、突如燃え上がり、家に修理が入り、妹は結婚し、息子はすべての習い事をやめて、野球をはじめ、などなど。

わたしの調子もへん。いま、オバマ大統領の自伝を読んでいるのだが、少年オバマ君が空港でおじいさんにおどけて見せたところで、涙してしまった。自分には理解できるが(当たり前だ)感動の壷が、説明できない。

人間。に反応しているんだろうな。

波動といえば、大津さんの波動はすばらしく、そこで、何もしなくても、幸せがみなぎっているひとになってしまった。
いままでは真理の話をするときだけ、すばらしい影響力があるひとだったのに、もうそこにいるだけでいいひとになってしまったのだ。

ビバ大津さん。

お地蔵さんみたい。

わたしもお地蔵さんみたいな人になろう。

というのが2009年の目標です。


そういえば、大津さんが変化して、わたしもまじめに、形を持ったクリシュナにつながるようになりました。(いままでは一瞬はわかるけど、基本金色としか認識していなかった。)

でもその姿は、花々や星々を撒き散らしながら笛を吹いたり、奥さんや恋人たちを従えているような愛らしい感じではなく、手がいっぱいあって、顔もいっぱいあって、さまざまな時空に同時に存在し、同時にいろんなことをやっているという巨大なもの。

バガバット・ギーターで、アルジュナが一瞬垣間見たような存在。
とんでもない規模のエネルギーの対流が周りで起きている。

そのクリシュナをみると、みんなが神話で語っているチャーミーな姿が、まるで冗談みたいな気がする。
けれど、それが当時の人にとって、もっとも受け入れやすい神的な形だったのだろう。

手がたくさんあるクリシュナが、すごくなつかしい。
(大津さんいわく千手観音のもとはクリシュナだったそうです。)

と、同時に、これなら、ひととしてたとえどんな形を取ったとしても、とても全部なんて絶対にあらわせない。ということがわかりました。
人間の身体は、これほどの光を、表現するようにはできていない。

だからありんこが見た象の部分映像のように、必要な分だけ、からだが耐久できるぶんだけ、したい学び、果たしたい役割に添った形で、今回のように一見不器用に見える形を選んだんだな。ということが、よくわかった。

全知全能なんだから、大津さんがクリシュナならなんでもできるはず、なんて、考えたりいったりしていたけど、それは全知全能がなんだかわかっていなかったから、言えたことだと反省しました。
あれは無理です。
ひとかけらだけでも表現できたら、それでもう、ものすごいんじゃない?っていうくらいのもんです。
がー031.gif
それでもちゃんとシャープに発信できたら、全知全能的な、大きな気づきが生まれる。
なんですばらしいんだろう056.gif

(大津さんについては友人の徳ちゃんの
http://chandra.exblog.jp

および、http://artandlove.exblog.jp/blog.asp?iid=3&acv=&dif=&opt=2&srl=10547593&dte=2009%2D01%2D08+17%3A43%3A54%2E000

を参照ください。)

この手だらけ顔だらけのクリシュナを垣間見て、人間マトリョーシカ人形説というのを考えました。

人間は、マトリョーシカ人形のように、各次元に規模の違った自分として同時に存在している。
その全ての次元は、真我である我という座で、統合されている。
が、個体としてのひとはその部分の記憶が、失われ、認識できない。
魂が成長し、波動が上がり、マトリョーシカ次元が上がると、愛の深まりによって上がった分だけ記憶が蘇り、物事の理解が増し、エネルギー量が増え、自由度が増す。
しかしどの次元までのマトリョーシカ人形として機能できるかは、どこまで自分自身と認めるにかかっており、ひとによって違っている。

わたしは(上のほうもですが)三次元のマトリョーシカ人形がちゃんと機能していないので、日々を送るのが結構難しいのです。

なので半透明なそれに、このたび「福助」と名前をつけ、ゲームのキャラのように、育ててみることにしました。

福助。よく居眠りしてますが、エネルギーには鈍感です(笑)

よろしくね。
by terasumonnmoku | 2009-01-14 14:07 | 最新情報 | Comments(0)

情報

「情報」について考えてます。
情報。
本や映画や音楽や芸術など、世の中にはいろんな媒体があるけど、結局のところ、人間が一番おもしろいメディアだな。とかつて思っていたことを思い出したので。。
量的に多い、というだけでなく、詰め込まれた情報自身が、人の中では、刻々と変化するから。

そういう意味で、人の記憶というのは歴史ににている。

誰がどんな情報を有するか、というよりも、その人がその情報をどう変化させるか、ということ。
その変化そのもののほうが重要なのかもしれない。
と思った。
この「どう変化させたか」ということが、知恵というものになるのかもしれない。
知恵は、生きている。

知恵というと、ポジティブなものだけをさすようだが、完全な生きた知恵に向かう途中の段階を「変化」と捉えると、情況は変わってくる。

わたしたちが個体として誕生したとき、まだそれほど波動が落ちていない当初、わたしたちが目指し、作り出した変化は、調和や、発展に向かうものだけではなかった。
くっきりした輪郭を持った個体は、永遠や一つであることを実感するには、不向きだ。
それは一つ一つの閉じた世界の中で、それぞれの小さな夢を描くに適したもの。
閉じた世界で見る夢のなかで起こることは、とてもブリリアントだ。
ぬかるみのようにたくさんの分離に阻まれ、一歩一歩がとても重く感じられることがあるだろう。

しかしどれほど時間がかかろうとも、知恵を得た時点で、わたしたちはいつでも、ただ一つのものである生命の座へ帰ることができる。
知恵と生命は、同じもの。
生きた知恵を生きることが、本当の自分を生きるということ。

わたしたちは、自分が生きる過程で蓄積した記憶の総体であり、
かつ生きた、知恵そのものでもある。

記憶は、「現在の自分」によって、常に絶え間なく更新されている。

わたしたちは振動する。震えながら新しい光を振りまく。

わたしたちは「変化するため」に形、物質を作り上げた。
形というのは、たぶん一種の基盤であり、別の風景を見るための窓なのだ。
変化するために、固着したものを作り出す必要があったんだな。

ただ、わたしたちには、自分がお好みの何かを作り出すたびに、それが永遠にそこにあるように思い込む癖がある。
時間の魔術によって。

わたしたちはなだらかに続く、リボンのような時間の道を歩いているのではなく
点から点へ、意志の力によって、ワープしているだけなので
ほんとうは全てが、そのたびに新しい。

それを完全に自分で認識できたら
肉体なんて何度でも、簡単に再生できるだろう。
実際やってるのだもの。

記憶も肉体も、この瞬間にしか存在しない。

かつてアルコール依存について調べていたとき、全ての依存症の根本原因は、過度のコントロール欲求ではないか、と書かれていた本を読んだ。
情況の全てを、自分の思い通りに制御したい。

だが「原因と結果の法則」によると、物事は、表面意識が望むようにではなく、意識が感じることどおりに現れる。
だから、自分がどんなことを感じているか、ということが重要になってくる。
恵まれた環境の人にいいことがやってくるのではなく、その人の持つハッピーな気持ちに呼び寄せられて、素敵がやってくる仕組みだ。

というわけで理想に近づけようという、コントロール欲求を持てば持つほど、そのひとの置かれた情況は厳しくなる。ということが起こってくる。
求めれば、それがないことが現れる。なぜなら、求める。ということは「ない」ということを前提にして(感じて)いるから。

しかし「求める」をすっとばし、もうそれは「ある」んだ。と思ってしまえば、実態がどうであれ、やがて現象上に「ある」という状態があらわれる。

大きな自分、本質のわたしにとっては、個体としてのわたしが幸せであろうと、絶望の淵にいようと、それはそれで大事な体験だ。

幸せであることと不幸であることの間に
形を通して感じるほどの違いはない。

何をどう学ぼうと、それはいずれ知恵に変わる。
もしかしたら今の肉体を持った自分ではなく、もちこして何世代かあとになっちゃうかもしれないけど。
悠久の宇宙にしてみれば、いずれあっという間。

でも単に一人の人間としては、本質に従い、やっぱりハッピーなほうが、断然いいわけで

ここはひとつ、ぐっとシンプルに行きましょう。

幸せはここにある。ほらね058.gif
by terasumonnmoku | 2009-01-11 11:36 | 最新情報 | Comments(0)

記憶について

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記憶って
蟻が見た
象の体のようなものかもしれない。

あるときは耳が見え
あるときは鼻の穴が見え

蟻が受取るのは
そのとき蟻が必要とする
最も使い勝手のいい
「印象」というやつで

どうみられようと
象自身はいつも気分よく
その長い鼻で唄なんか歌っちゃって
by terasumonnmoku | 2009-01-10 23:11 | 最新情報 | Comments(0)

年が明けて、はや二週間目に突入ですね。
みなさまいかがお過ごしですか?

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます<(_ _*)> 

必要に迫られたこともあり、今年は心機一転してブログを引っ越すことにいたしました。

みんなが使っているエキサイトブログ。
画面がとっても爽やかです。今までのカフェスタからみると、爽やか過ぎるほどです。
どうしよう。
今年はついにわたしも爽やかな道を、歩いていくことになったのでしょう。
大好きな深刻な事態ともおさらばです。

とはいえ、相変わらず勝手なことを書き綴ってゆきますので、どうかどうか大目に見てね。

では!
by terasumonnmoku | 2009-01-08 14:51 | 最新情報 | Comments(10)

生きる意味が見つからないなら、自分で創って育てちゃおう!というブログです。やっていることはさまざまですが、常に生きることに向かっています。

by terasumonnmoku