カテゴリ:アート( 56 )

ソフィ・カルは1953年生まれのフランスの女性現代美術作家。
写真と文章を用いた物語性の高い作品で知られる。

彼女の他の作品には、街で拾った見知らぬ人のアドレス帳に記載された人々にインタビューを行い、持ち主がどんな人物であるのかを、実際に会うことなく浮かび上がらせた
「アドレス」があり、ソフィ・カルはその作品を作ったことで、30年前に訴えられている(!)

この作品展「最後のとき/最初のとき」に展示された一連の作品は

1986年に作られた、生まれつき目の見えない人に「美のイメージとは何か」を尋ねた 「盲目の人」という作品で得られた、ある男性の回答
      「わたしの見たもののうち、最も美しいもの、それは海です」
という言葉に触発されて、創られたもので

2011年の「海を見る」ー生まれて初めて海を見る人々の表情をとらえた映像作品。

と、2010年に作られた「最後のとき」ー突然視力を失った人を取材し、写真とテクストで綴った作品の2部構成になっている。(両方とも場所はイスタンブール)

目の見えない人に美について尋ねる。というような、
言いようによっては残酷で、ぎりぎりな感覚が好きだ。

ぎりぎりを突き詰めていくと、突然視界が変わり、前提が崩れ、別の世界が立ち現れる瞬間がある。
それをわたしはアートと呼ぶが、呼ばない人が大勢いても全然不思議ではない。

「海を見る」が展示されている部屋には、10個のスクリーンがあって、そこにイスタンブールの内陸部に住み、テレビすら見たことはないのではないか、と思われるような人びとが初めて海を見ている後姿が、一切の説明なくただ、映し出される。

しばらくして、彼らはそれぞれのタイミングでこちら側を振り向くのだが、その表情がすごい。

同じ海の、同じ風景を目にしているはずなのに、一人一人の心象風景のあまりの違い(純粋にわたしにとっての事実)に、慄きを感じた。

ある人の海は、単に理解できない「不可解」な表面であり、ある人の海は静謐で哲学的なありようを見せ、またある人の海は立体的で、光や色が際立った生き生きとした喜びに満ち、ある人の海は存在の根源に深く立ち入ってゆくような、神秘的で深い余韻を醸し出している。

人の数だけ、海がある。

それはもはや、認識とか視覚刺激の問題というよりも、その人自身がどれほどの事物に対する許容量を持っているか、どこまで自らの魂の深みに降りていくことができるか。ということについての、それぞれの告白を聞いているよう。

ひとはひとりひとり、違う世界を生きているらしい。とは漠然とは思っていたものの、まったく同じものを見る、大体同じ境遇の人の心象風景を同時に認識し、その差異を目の当たりにしたのははじめての経験だった。そこがまさに衝撃的だった。

2部の、「最後に見たもの」についての印象は全く異なっている。

その人たちの持っているイメージの情緒的側面は、そのひとが「視覚を失った」事実をどのようにとらえているかということに大きく左右されているように思われた。
ある程度それが許容できているひとの持つイメージは、どこかノスタルジックで、その人の中に二人の人間がいるような面持で立ち現れる。

見える世界で機能していた自分と、盲人としての別の人生と。

二つの世界の橋渡しをする最後の記憶は、誇らしかったり、悲しかったり、ちょっとおもしろかったりする、中身の分からない瓶に張り付けられたラベルの様に、残っている、らしい。

わたしが一番気に入ったイメージは、病気で徐々に視力を失った人の最後の記憶だ。

視界がぼやけて道路標識のポールと、傍に立っている女性の太ももの区別がつかず、転びそうになり、思わず女性の足をつかんで殴られたという経験を語る男性のイメージ。
たぶん厭な記憶ではなく、そういうことさえ大切だったほろ苦い記憶として、今もその人の中で生きていることがとても美しいものに思え、胸に迫る。

でも視覚を失ったことを、受け入れることができない人の記憶は、あまりにも「現在」でありすぎ、ただただ圧倒される。
彼らはその「苦痛」を日々新しく更新し続けることで、目が見えない人として生きていくことを、懸命に拒絶しているよう。

そのひとたちには、変化してゆく日常としての「現在」は、たぶん、存在しないのだろう。
そういうあり方を選択しなくてはならない理由は理解できる。
ただ、イメージは共有できない。
昇華されない苦しみは、誰のものでも個人的で、普遍性を持たないものなのかもしれない。

喪失ーについてがテーマなのだろうか、と漠然と考えてこの展覧会を見に来たが、これはもしかしたら、喪失というよりは獲得―変化についての物語だったのかもしれない。と、後になって思った。

海を見た人は、「海」という概念を獲得し、
視力を失った人は「視覚による認識手段を失う」という状況を獲得したのかもしれない。

わたしたちがこの作品展によって見ているのは、大きな衝撃によって、ある世界観が崩壊し、その人の中で世界の意味や秩序が再構成されてゆく、その過程だった気がする。

内的世界の秩序を再構築しつつあるさまざまな段階にいる自己像を見ているような、不思議な既視感があった。
by terasumonnmoku | 2013-05-15 18:56 | アート | Comments(0)

身体が豆腐のようになってしまったので、ゆるゆるランニング部に初参加。

ぽつぽつとオレンジの灯りのともる夕暮れの公園を、話ができるスピードでみんなで走る。

子供のころ、遊びすぎて真っ暗になり「またお母さんに怒られる!!!」と焦りながら家に帰ったときの気持ちを思い出した。

あったかい窓の灯りや、食事の匂い。
なつかしい。
(なぜか友人の秋田在住のみつこちゃんと一緒に走った!みつこちゃん、会えてうれしかったよ♪)

その前日は、思い立ってベラルーシ家庭料理の店に行ってみた。

何年もベラルーシと日本を行き来して生活しているというご主人に、ベラルーシの魅力について尋ねると、ロシア語のガイドブックを見せてくれた。

田舎の風景が、ラピュタっぽい。
手作りのデズニ―シーのような不思議な印象。

庭園の木の感じが、タルコフスキーの「ソラリス」に出てくる池のほとりに似ていますね。
と感想を言うと、ご主人の目がぴかっと輝き、ソラリス撮影の裏話や、マニアの語るタルコフスキーの魅力のほうに話題が振れた。

もともと彼がロシア圏に興味を持ったきっかけは、タルコフスキーの映画だったのだそうだ。
なにがひとの人生を変えるか、ほんとにわからないなあ。

そんな話をしていた時、たまたまやってきたメキシコ系の男性は、わたしが以前住んでいたカルフォルニアのサンタバーバラ出身だった。

当時通っていたシティ・カレッジの話をし、ヒスパニック系のクラスメートとのパーティが楽しかったというと、そうそう。と彼はいい、こんどその店でタコ・パーティをするので、遊びにおいでよとご主人に誘われた(笑)ベラルーシ料理の店だが、その日はメキシコ料理になるのだそうだ。

その前に行ったタンゴライブでは、友人の似顔絵作家うめももちゃんの師である舞踊家の小山先生に会い、かつてわたしが熱狂的に好きだったナム・ジュン・パイクという韓国系のアーティストの話で盛り上がった。

好きなあまり、ナム・ジュン・パイクの歌を勝手に作って、友達の前でしつこく歌い続け、大変嫌がられた話をすると、すごく受けて、

かつて東京で彼の個展(小山先生は当時美術展のプロディユースをしていたらしい)にかかわった際、パイクにおにぎりを食べさせた話をしてくれた。

過去と現在が交錯する感じが、たまらなくおもしろい。

小山先生は草間弥生のはじめての大規模な個展にも関わったそうだが、きっかけが当初企画したマイヨール展がぽしゃった代わりの代打だったのだそうだ。

マイヨール(アリスティッド・マイヨール。彫刻家。この人の彫刻は感動もの。大地の母って感じです)の代わりに草間弥生なんて、路線が違いすぎませんか?
というと、

そうよねえ。
と小山先生は無邪気に笑った。

生命力という点では共通する部分があるのかもしれないが、不思議なチョイスだ。

マイヨールを持って来たいほかの人に、当時はそれほどビッグネームでもなかった草間弥生を押して、しかもそれを通しちゃんなんて、すばらしい勇気だと思う

でも、おかげでわたしは、その日本で最初の草間弥生展を見て、彼女の本を読み、草間Tシャツを着て一人で悦に入って歩けたので(当時は誰の共感も得なかったが)よかった(笑)

ナム・ジュン・パイクの歌が聞きたい人は、わたしに会った時にリクエストしてみてね。

でもこの間リクエストされた時には、恥ずかしくて歌えず(なぜ?)かわりに、妹にいつも聞かせていた「グリコーゲンのうた」を歌ってしまいました。
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パイクの作品。PRE-BELL -MAN。ウィキペディアから画像を借りました!
by terasumonnmoku | 2012-11-11 11:49 | アート | Comments(0)

草間弥生の水玉LOVE。

こんにちは!みなさまお元気ですか?

てらすもんもくです~(^○^) 

今日も気持ちの良いお天気ですねえ。

きのう、藤崎で草間弥生とルイ・ヴィトンのコラボのショーウィンドをみかけ、びっくりして写真を撮り、FBにアップしたら、今年のヴィトンは水玉ですか!というコメントをいただきました。

水玉、かわいいかも!って。

その言葉に、すんごい感銘を受けてしまったw( ̄o ̄)w

あまりにも彼女の著書の
「第三章 淋病星雲精液拒否宣言」
とかの印象が強烈だったので。
(しかも本質的には今もどこも変わってないと思う)

そうかー

性的なメタファーって、普段はそこに特化した部分以外はないことになってるけど、考えてみればシヴァ神のご神体もリンガだしなー

そういえば、仙台のアーケードにもリンガが祭られていた気もするしなあー

ダイナミックな生命の流れというか、そういうものが欲望を刺激するって
考えてみればあたりまえのことなのかもしれません。

なんでびっくりしたんだろう。

むむーん。

だからどうということはありませんが、唐突にわたしはこれでいこう。と思ってしまった(笑)

キッチュな呪術の世界で生きてこう。

生命の流れをとりもどそう。

ああ。みんなでいるってすばらしい。
ものすごくたくさんの扉が、どこにでも開かれているようだよ。

ところで、わたしが別の意味で敬愛する岡本太郎さんは
天然の草間氏とは異なり、実は大変理性的な方で、かなり意識的に「いろもの」をやっていたような気がします。

そういうのも楽しいかも。

ちなみにアップした写真はこれ
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ちょっと、すごくないすか?
by terasumonnmoku | 2012-09-08 11:48 | アート | Comments(4)

お知らせ

このたび


〒981-3212
仙台市泉区長命ケ丘2丁目21-1ロイヤルメゾン泉101号
(宮城学院向いのショッピングセンター街の中にあります。)
tel 022-777-5201

楓屋カフェ&ギャラリーにて

3月4日12時から3月17日17時くらいまで


    Monika Kurokawa  & tamaco 2人展

を行います。

Monika さんは仙台在住のドイツ人で、シュタイナー学校卒業の生粋のシュタイナーガールであり、ルソー風の独特の世界観を持つ絵を描いています。

今回は私がかかわっている星空プロジェクトに参加する形で、その関係の絵を見ていただくとともに、彼女が震災直後に描いたすばらしい絵本「Hope」を皆様とシェアしたくて、企画しました。

だからテーマは 「Hopeー星空プロジェクトに寄せて」  です。

わたしたちの記憶に残るあの日の星空に祈りを込めて

本当に大切なものをきちんと大切にしてゆく決意を新たに

希望を、子供たちに残したい未来を

まずわたしたちの心の中に、

絵を通して、一緒に、つくる作業をしていただけたら
これに勝るしあわせはありません。

わたし自身まだ希望というには程遠い感覚をもっていますが、でもそんなわたしでも、はじめることくらいはできると思うのです。
今のわたしにはじめられるなら、たぶん誰にでも、できるはずです。

みんなでみる夢は、きっと現実になる。

仕事の都合上、わたし自身は4日と17日の限られた時間しかいませんが
よかったらぜひいらしてください。

なお、お店は12時から夜8時まで。

月曜定休。

充実したカフェメニューが魅力です(*  ̄▽) 
by terasumonnmoku | 2012-02-28 21:59 | アート | Comments(2)

写真

初めて、アートに踏み込んだ写真をみたのは、高校時代。
バイト先の富士山の山小屋でした。

7合目の日の出荘というその小屋に関わりのある人物が撮った、
壁のモノクロ写真。

ぎろっと、睨むような目をした男性の迫力を、今でも覚えいる。

被写体を説明的に撮ったのではなく、
空気まるごとを捉えた写真を見たのは、初めての経験でした。

それから、なんとなく写真に目がいくようになり、自分自身も情緒的にディープになっていったこともあって、
藤原新也さんのインドのシリーズとか、荒木経維さんのさっちんとか、
濃い目の写真が好きになりました。
マン・レイの変な光線とか、ね。

今だったら本城直季さんのミニチュアの世界とか蜷川実香さんとか、
キッチュでおもしろい感じの写真を眺めるのも好きです。
世界が違って見える。
たまたまミクシイで知り合った、カメラマンのkazesanの写真も大好き。(ブログなどでは、風景写真を見ることが多いような気がしますが、わたしは人物を撮った写真が特に好きです。kazesanは写っている人たちと、心のそこから一緒に生きているんだと思う。)

それはともかく、

写真って、ただシャッターを押した先にある対象が「たまたまそこに写る」ようなものではなく
写しだされるのは、撮り手が見ている、非常に個人的な、世界そのものの姿、なのだと思うのです。

被写体に対して、その人が持っている感情が、そのまま現われる。

わたしにはたぶん人よりも、「より深く写っているもの」がわかるのかもしれないけど、
よくわからなくても、それはみんなに伝わっているんだと思う。

先日、セバスチャン・サルガートさんという、ブラジル人ジャーナリストの写真を見ました。

世界中の労働者たちのシリーズや、アフリカの飢餓・戦場写真、現在は創世記時代を髣髴とさせる地球の写真や、大自然の生き物を撮る写真家です。

その中で、一枚の写真に目が留まりました。

エチオピアの、学校の教室に積み重なるように倒れている、
その一年前に虐殺された、何百体もの人骨の写真です。

サルガードさんが、敬虔な気持ちで撮ったからでしょう。
柔らかい光に包まれて、その光景は、とても静謐で、清らかに見えました。

折り重なった凄惨な死体の写真。
なのに、美しい、といっていい。

たくさんの人骨は、すでに皮膚も眼球も失っていたけど、そのひとたちは、
一人ひとりが立派に、人生を全うした個人として、生きているように見えました
お化けとしてではなく。
だからわたしは、彼らがそこに閉じ込められ、虐殺に至るまでのシーンをとても冷静に読むことができた。

フイルムを巻き戻すように、人々が皮膚や筋肉を取り戻し、傷口から出血し、じわじわと死に至るまで。起き上がった彼らにたくさんの銃弾が打ち込まれ、騒乱が始まった瞬間。

更にもどってたくさんの怒号と、教室に入る前の喧騒。強い日差し。情況を見守るかのような、途方にくれた小さな生き物ー蜥蜴みたいなーのまなざし。
家での時間と最後のご飯。かすかな風のそよぎ。星の瞬きと静かな夜。貧しくても、互いに支えあいながら、ささやかで尊い、たくさんの喜びに包まれて生活していた時間。誕生と死。笑顔や会話。
そういう豊かな生活まで、を、
たどっていくことができたのです。

一人ひとりが深い尊厳をもって生きていた。
最後はそこで、積み重なった骨になったけど。

写し取られたのは、ただ悲惨なだけの事件現場ではない。

助け合い、愛し合い、ぎりぎりまで生きることに奮闘して、精一杯命の限りを尽くした尊敬すべき人々がそこに存在していたのだ。という崇高な事実でした。

そこで死んでいるのは、わたしであり、あなたであった。
とても大切な、ひとびと。

「わたしたちはもっともっと、対象を尊敬しなければならない。」
と、サルガートさんは言います。

きっと、そこなんだろうな。
わたしに足りないのは、「対象を尊敬する気持ち」なんだと思う。

尊敬して、心を開いて、近づくこと。もっともっともっと。

そこに尊敬がないから、きっと苦しくなるんだ。

人間ってすごいなあ。と思います。

命そのものがすごいんだよ。って
サルガートさんなら言うのでしょう。

そこにわたしがいて、そこにあなたがいれば
天国のラッパは鳴り響き、魂は永遠の平安を得る。

いつでも。

そんなことを、この一枚の写真は教えてくれます。

一人の力って、大きいね。
by terasumonnmoku | 2010-01-29 17:19 | アート | Comments(0)

OBEYと近況

最近、学びが進んで家が平和です(笑)

10歳の息子とうもろこしは、近年、ぐっと少年らしくなり
着替えをしているところに通りかかろうものなら
「見ないでよ~」と、目を三角にして怒るようになりましたが

家を裸で歩き回るのは平気です。

脱いでいる作業が恥ずかしいんだろうか。

途中が?

「恥ずかしさ」の感覚も、まだらに成長するのかしら?

そんな息子が思春期になったらどうしよう!
という話をダーリンとしていたら
いつのまにか

「それよりも、うちには万年思春期で反抗期の嫁がいるから大変だ」
という話になっており
それはお気の毒に!と、思ってよく考えると

わたしΣ( ̄□ ̄)!でした!

そうこうするうちに
ずーっとまえのできごとをなぜ彼が怒ったか。
についての説明が始まり

聞いていると確かにそれは
わたしの視野が狭くて全体に配慮することができなかった~
ために周囲に多大な迷惑をかけた~

ことが明らかな出来事であり


しかしその時のわたしには、
そういう風にしか動けなかった(今は違う)というのも厳然とあるので
しょうがない。



気持ちよく心から、平に、謝りました<(_ _*)> 

怒られても、まったくその通りだからストレスもないし、
できなかったわたしは、もう存在しないので
臨場感もなく

まるで、前世の出来事のよう。

成長するってすばらしい・・・・のか?(〟-_・)ン? ? ?

あるいはこういうところが自由すぎるのか。

どっちなんだろう?

わたしが終わって次に行っているとき
みんなはまだ納得の小道を歩いている最中なので

タイミングが合いません。

でもそうして逐一説明してもらえるようになったのは
聞けるだけわたしが育ったからということもいえるので

成長するってすばらしいΣ( ̄◇ ̄*)

だんだん少しずつわけがわかるようになってくるって

いいなあ~\(^o^)/!♪

たぶん、ちょっと前までは
全体の情況を把握するより、周囲のエネルギー状態に対応するのに忙しくて
手が回らなかったから

そういう段階だと
例え説明してもらっても
本当のところ、良くわからなかったと思う。

最近車を運転していて思うのですが
世の中、わたしが思っていたより

ずっと安全。なの。

エネルギーの世界には境界がなくて
自由自在に相手の領域に侵入しあったりするので
自分の波動が低いときは常に戦争の真っ最中にいるみたい。
ぼくらのこの平坦な戦場で
いつもいつも、攻撃を受けているみたい。

だったから。

ものが固くて輪郭があって、個々に分離して名前がついていて
勝手に流入しあえないというのは、実に実にすばらしいことだ。

としみじみ思います。

わたしはほんとうに、いろんなことが怖かったのですよ。
なぜって、みんなの心配や恐れを
常に自分のものにしていたから。

ああ。三次元万歳~\(^o^)/!!!!!!!

というわけで表題のOBEYです。

先日、ピッツバーグで画集を仕入れたダーリンに、
はじめてOBEYのシリーズの絵を見せてもらいました。http://www.ukadapta.com/contents/Art/Art_Obey.html

OBEYはグラフィック・アーティストだったシェパード・フェイリーが、
アンドレ・ザ・ジャイアントをモチーフにして作った絵のポスターを街中に貼ったのが始まりで、
基本的には赤とクリームと黒をベースにさまざまなバリエーションで展開しています。

最近有名なのではオバマ大統領の顔にHOPEの文字の入った、勝手に応援ポスター。
(この人は貼ってはいけないところにポスターを貼った罪で、逮捕もされている。オバマ大統領には、後に活躍を認められて、公認選挙ポスターになった。)

アンドレ・ザ・ジャイアントの大きな顔の下にOBEY。
ロマンチックな少女が手にした手榴弾に咲くバラの花の下にも、OBEY。

すごいな。

MAKE ART NOT WAR

このエネルギーは
わたしがいま手放そうとしているものにすごく良く似ている。ので、ちょっとびっくり。

(ToT)/ほよ~~~(;。;)

OBEYというのはー従え、という意味。

ダーリンいわく、体制はいろいろな形でわたしたちに「OBEY」と迫ってくるので
油断なく、従わないように、そして自分自身をちゃんと生きるようにしよう。
というメッセージだそう。

より大きなものに、自我をゆだねる。という意味もあるのかもしれないけど
絵の感じから行くと、従えーとか従うなーとか、そういうせめぎあう力が漲っている。

せめぎ合うというのは、要するに戦っているわけで
愛とは別物みたいな、二元論の局地的表れな感じがするけど

ただ、強さ、というのはやはり必要だと、このごろ思うのです。

甘くて柔らかくて優しいだけでは成り立たない。

優しさや柔らかさの中にも、何か大切なものを生み出し、
自らの足で立っていく力というか、そういうものが必要と。

平和とか愛って、たぶんすごくすごく強いものなんだろうと思う。

母のように。

だからこのOBEYの絵でも、美しい少女は手榴弾から花を咲かせているのかもしれないけど

もう時代は手榴弾ではなくて

ただ美しく強い花。だけを要求しているような気がするな☆
by terasumonnmoku | 2009-11-09 16:56 | アート | Comments(0)