ちかごろのいろいろ

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朝青龍が、塩をまいて手を振り上げ、はあーっと息を吐き、まわしを叩く仕草がおもしろく、息子とうもろこし一号(10歳)とそのポーズの練習をした。

はあーっ!ぱんぱん!
そこでぐわっしゅ!と見得を切る!

二人ともどうも変。気合が立ち登らないから。

その気合、どこかで見たことがあると思って考えると、優勝決定戦を見る二時間くらい前に自分が描いた↑の絵と、同じエネルギーだった。

本人的には、単に情況の変化を促す、ポジティブな力をイメージして描いたのだけど、同じものが朝青龍関の上体からめらめら立ち登るのを見て、相当がっくりした。
朝青龍が気合を立ち上らせているのは立派だけど、わたしは別に戦いたいわけじゃない。
ああ。これは違うんだ。

動き出すためには勢いが要るとか、ヨガでは弛緩するために力を入れるし、とかいろいろ考えてみたけど、ぜんぶ言い訳だった。
わたしが目指しているものは、こういうものとは方向性が、全然違うのだ。

その目指しているものとは、調和に基づいた自由。
ピースで切り取った完全性というのではなく、うちに秩序をホログラムのように内包した。

まだ、学びが浅く、無意識にも説得というか強制とかそういうものが必要だと思っていたんだわと、深く反省する。

絵は言い訳が効かないから、シビアだなあ。
しかし、今の時点の自分そのものだから、日記もそうだけどあらわすことで先に進むというのはあるかもしれないね。

むむん。

話は違うが、浜崎あゆみさんを見るたびに、見た目が間違っている気がする。

わたしはたまに視点が混乱し、そのひとの過去生が、現時点の像にダブって見えることがあるんだけど、彼女の場合は過去生というより生々しく、今の本人の志向性が、そういうエネルギーを創っているような気がする。

どんな風に見えるかというと、ユースケサンタマリアとイチローを足して二で割って、派遣切りして一週間お風呂に入れなかった。という感じ。
ストイックで、何かを目指し、それでいて何かが強烈に足りないと思っている30代の男性、無精ひげつき、のような。
でも実際の映像は、ひらひらドレスに金髪の大変な美女、だったりするので、いつもわたしは混乱する。あまりにも不思議で、長瀬智也の情熱大陸まで見てしまった。こっちは可憐ですこし事情のあるお姫様に見えた。出自が複雑で継母に苛められている、というふうな。

いろんな人がいろんなふうに見えるが、結局それはそのひとが、今学びとして何を選択して生きているか、ということを示しているに過ぎない。

わたしのすることは以前chandra-kさんが波動日記に書いていたように、ただ、全ての人の前にたち、
謙虚にこうべをたれて「あなたのなかの神様にご挨拶します」ということ。

ひたすらシンプルに。いきましょう。

以前chandra-k さんがニール・ドナルド・ウォルシュの「小さな魂と太陽」という寓話を読んでくれたとき、小さな魂が「ゆるす」という学びをするために、別の魂が協力を申し出るシーンがあった。

その魂は天上界ではきらきら輝いているのに、地上でその小さな魂のために自分を重くして、とてもひどいことをしてくれる約束をするのだ。
そしていう。
「わたしがどんなに変わってしまったとしても、わたしの本当の姿をおぼえていてね。」

その徳ちゃんの読み方が好きで、なんどもなんども、もう一回!とそこだけリクエストしていってもらった。

「わたしの、ほんとうのすがたをおぼえていてね」

だれにでも、そういう「魂の約束」の相手があると思う。
今の人生で、信じられないような飛び切り「ひどいこと」をしてくれるひと。
誰よりも深い愛で、自分に向かってきてくれて、学びを進めてくれている人。

わたしは、すべてのひとの、本当の姿を常に思い出しているひとになろう。

そしてみんなが自分やそれぞれの大切な人たちの、本当の姿を思い出すきっかけになるような、鍵になるような、そんな波動の出る絵を描く人になろう。

脱、朝青龍!

それにしても勝利した後の、関取のあの赤ちゃんのような笑顔は、たまらなく魅力的でしたね(笑)
by terasumonnmoku | 2009-01-27 13:49 | | Comments(0)

ライトボディの誕生♪

何かが動き出しそうな、もう動き出しているのにまだ表面には現れてきていないような、そんな不思議な雰囲気の時間をすごしています。
みなさまはお元気ですか?
今日この地方は雨でした。
一日中霧のような雨がふっていました。
皮膚呼吸が楽にできそうです。

先日レゾナンスセラピーの事務所へ、仲間のHeartさんのセラピスト伝授(詳しくは及川徳子さんの<波動日記>をご覧ください!どこかにタグがあるはず!)に行ってきました。

びっくり仰天でした。

わたしはライトボディが作られてゆく瞬間を、初めて目撃してしまったのです!

椅子に掛けたHeartさんの頭に軽く両手を添えて、大津さんがエネルギーを入れていると、ややしばらくたったある時突然、Heart さんの足元に、黄色に緑にライトオレンジに、透き通るようにきらきら光る光の身体が構成されはじめたのです。

光の身体が立ち上がる。

わあ~!と、わたしが呆気に取られて見ていると、今度は、
頭のてっぺんから金色のクリシュナエネルギーが注入され、第一チャクラの更に二個下辺りの足元のチャクラまで、円筒状に光が降りていきます。
更にそこから頭頂に向かって、再度溢れるように光が満たされ、それはまさに充填された!という面持ちになったのでした。

驚いたことに、その金の光がライトボディを満たしながら上に上がってくる最中に、
ぼぼぼぼぼぼ!とクイズ番組のように、わたしのマルチビジョン内の電光掲示板(いつそんなものができたのかはわかりませんが・笑)の、右横のライトが6個点灯し、あ!いまHeartさんが6に入った!という瞬間が、わかってしまった。
(Heartさんはこの伝授で一気に6の4になったそうです!おめでとう!!!!!!!!!)

セラピスト伝授はもう何度も目にしているのですが、こんなにはっきりくっきりとライトボディができるところを見たのは初めてでした。
(見える場合もあるのですが、ほとんどはぼんやりしたエネルギー対流のようです。流れの向きは一緒ですけど。)

いつもは岩場のダイビングのように、エネルギーを一生懸命、その人の創っている抵抗を潜り抜けながら入れて行くのに、大津さんは上機嫌で、伝授中に駄洒落も出ます。
(その抵抗は、あたかもバンアレン帯の隕石群のようです。隕石群が多ければ多いほど、大津さんの疲労度も深くなるもよう。)

最初の状態は、みんな大体同じなのに(5に入っているという意味では)、
受け入れるか抵抗するかで後の状態がまったく違ってくるなんて、ほんとうにびっくりです。

全てを投げ打ち、全てを受け入れるという気持ちひとつで、エネルギーの受信情況にそれだけの違いができちゃうなんて!

わたしの視覚は三次元的にはあまり機能していないので、たぶんずっと一緒にいなければ、同じ人だとは思えなかったかもしれない!というほど、その後の違いようは見事なものでした。

いやあ、ほんとうに、すべてはみんな自分で選び、自分で作っているんですね。
わたしの個性の傾向として、その人のエネルギー状態があたかもその人自身をあらわしているように、勘違いしがちなのですが、
あくまでもそれは、その人がその時点で自分自身ををどう思っているか、ということを示しているだけだったんだな。
原因ではなく結果を、あたかも真実であるように受け止めていたのです。

原因は、そうしようとおもう自分。わたしたち一人ひとりの中で、生きて呼吸する、創造主である神にあったのに。

真我はなぜそんなに自由なんだろう。と思うと、驚くばかりです。
いくつもの段階に分けて、こんなに何でも作れちゃうなんてすごすぎる。
作られたものをいくら見ても何も変わらないはず。
わたしはそれをなんとかしたいと、ずっと思ってきたんだな。

ということを教えてくれて、ほんとうにありがとう!

もうセラピスト伝授を受けられるひとは、オープンな心で伝授に向かい、どんどんライトボディを作っちゃいましょう☆
世界のきらきら度が、ぐっと増しちゃいますよ(笑)
by terasumonnmoku | 2009-01-23 19:24 | 最新情報 | Comments(2)

オバマ大統領就任!

オバマ氏が大統領に就任しました!

歴史に残る日ですね!!

今、シカゴでコミュニティ・オーガナイザーとして四苦八苦していた当時のことが書かれた、1994年出版の自伝を読んでいます。

母が白人、父がケニア人留学生、インドネシアとハワイで、中流家庭のある程度恵まれた環境で育った彼は、どこにいてもよそものだったよう。

この本の中には、かつて一世を風靡した「ルーツ」のような憎しみや恨み、情熱の熱いボンゴのリズムは聞こえてきません。
きわめてクール。
そうせざるを得なかったのかもしれません。
黒人の文化の純粋性を強調し、白人社会を糾弾すると、それは母や祖父母を裏切ることになり、白人社会で生きようとすると外見が邪魔をする。

人種や文化の純粋性を追求することは、自尊心の源にならない。と、15年前のオバマ氏は書いています。
「その人の全体性というものは、譲り受けた血統よりももっと繊細ななにかから生まれるものであるはずだ。」
そしてこう続きます。
「(わたしたちは)それぞれ自分が持っている物語の中に、複雑で矛盾に飛んだ生い立ちの中に、全体性を与えてくれる源を見出さなければならないのである。」

とても印象的なエピソードが書かれていました。

ある日、事務所に青い目のカラーコンタクトをつけて現れた市民運動の女性スタッフをみて、非常な違和感を感じたオバマ氏は、数日後彼女を、黒人の女の子たちの出演するミュージカルに連れて行った。

「彼女の踊り、メロディーがない
誰にも言わないで   彼女は踊ってる
ビールの空き缶と屋根瓦の上で」

「誰か、誰でもいいから
黒人の少女の唄を歌って 彼女に気づかせて
自分に気づくように  あなたに気づくように
でも彼女のリズムで歌ってあげて 
優しさ 苦しさ 辛さ
彼女の人生の唄を歌って」

そして登場人物たちはそれぞれの物語を歌い
全体が一つになるまで激しく踊って

一つになった魂は最後に一篇の詩を読む。

「自分の中に神様を見つけた
その神様を愛してる  心から愛してる」

女性スタッフとオバマ氏は見終わった後、言葉もなく、ただ涙を流しハグをして、別れたとだけ書いてありました。

すごいな。
本当の意味で何かをシェアする、分かち合う、ってこういうことなのかもしれない。

寄り添って同じ唄を歌う。
そしてお互いの中に神さまを見る。

それが響きあうということなのかもしれない。

人が出会い、何かを分かち合い
それぞれの人生の中に、全体性を与えてくれる源を見出す。
自分の新しい物語を生きる。
響きあうことによって。

物語は「秩序」と置き換えることもできる。

規模を大きくすると同じことは社会にも言えるだろう。

貧しい社会、貧しい国が不幸か、というと、一概にそうではないから。

問題はそこに秩序、意味、自尊心を支えるだけの物語があるか、住人がそこに全体性に回帰する何かを見出すことができるか。ということなのだ。

どれほど規模が大きくなっても、そこで生きているのは一人ひとりの人間である。
小さなことに笑い怒り、涙し諦め、希望を持ち、失い、といった、たくさんの思いを抱えて生きる人間。

今後どんな展開があるとしても、新しい創造がはじまったこと。それだけは間違いない。

(全てを受け入れることと、全てを手放すことは同じ。という基点には秩序があるということがわかりました。どんな秩序かというのはこれから知ってゆきます・笑)

・マイ・ドリーム   バラク・オバマ自伝(ダイヤモンド社)
by terasumonnmoku | 2009-01-21 10:57 | 読書 | Comments(0)

意味の果てに住む。

こんにちは!今週も、はじまりました。

鏡開きをしようと思っている間に時が立ってしまいました。
餡って、どうやって作るのかな?と考えていると、友人が突然作り方を教えてくれました。
感謝です。
というわけで、わたしは今、生涯で初めて小豆を煮て、餡を作っております(笑)
画期的だ!

ところでみなさま、今のご機嫌はいかがですか?ハッピーに暮らしてますか?

いろんなことがあるし、調子は日ごとにそれぞれだけど、この瞬間に限ってしまえば、ハッピーでいるのは簡単です。

お日様がまぶしいから。
餡がおいしくできたから(笑)

でも時として、凹んだり、ハッピーじゃない気分だったりするのは、頭の中でこねくり回している、物語のせい。
あるべきすがたに、自分や周りがはまっていない、ということに、いらいらしているに違いありません。

あるべき姿を求めると、そうでない姿もできてしまう。
人やものや関係のありように、理由や意味を求めると、どうしてもわたしたちは苦しくなります。

なのにどうしていつも、意味を探すんだろう?

自信がない上に、それを誰かにもらうものだと、思っているせいかな。

そんなものなくたって、すばらしいのに。
理由がなくても、全然困らないのに。

かたちがないものが欲しくて、かたちを求める。という矛盾です。

いずれにせよ、答えは自分が握っているのです。

近頃のわかったこと。

1)真我で生きるということは、まるごとそのままがすばらしいわたしを、ただひたすら、体験し続けるということ。

2)すべてを受け入れることと、すべてを手放していることは、同じだということ。
(ーそれが無限に大きく無限に小さい状態でもある)

3)まるごとですばらしい、を表現する、あるいは受け入れるために、特定の形は必要ではないということ。

形は珍重されるべきものでもなく、無視されるものでもない。

それはエネルギーと同じように、わたしたちが生きて、自分を表現するための、有益な手段です。

最近気づいたのは、ひとは、どうやら、エネルギーや波動が、もの、そのものにくっついている、と思っているらしい。と、いうことでした。

だからこれだけ多くのもの、これだけたくさんの形が必要なのでしょう。
だからこそ、目に見えない、それなしでは生きられないほどに大切なもの、をシェアするために、どうしようもなく物、それ自体が必要になってくるのです。

三次元の世界は、ポケットがものすごくいっぱいあるビリアード台みたい。
不思議なものに不思議な重要性が付加されている。

いろんな場面でいろんなふうに、わたしたちはこのイリュージョンにトラップされています。
たくさんのこうでなきゃ、に規定されて。
それはきわめてシンプルな仕組みなんだけど、一見とっても複雑そうに見えます。

物に誰かが付与した意味を、尊重する必要はあるが、意味そのものを共有する必要はありません。

最初の動機さえきちんと立てていれば、意味なんていくらでも創り出せのです。

住所は番外地・幸福。

わたしたちの家は、意味の果てに建っています。
by terasumonnmoku | 2009-01-19 12:25 | 最新情報 | Comments(2)

福助を育てる

前々回の日記で、三次元のわたしである福助のことを書いた。これを育て始めて、みんなの福助のことが、ようやくわかり始めた。

福助、というのは「人から見える自分」と思っている自分。である。

ゆえにある種の公共性を持っている。

手紙に多用される「大変お世話になり、ありがとうございました。お体お大切に」のような、一般に通用しやすい形。

でもひとはいろんな風に見られたいと思っているので、いろんな形が流通している。
見られたい、ばかりではなく、そもそも的に完全に自分のキャラを勘違いしている人が、ほとんどである。

本当は強引なのに、シャイだと思っていたり、プライドが高く、あまりに多くを自分に要求するがゆえに、だめ人間。と思い込んじゃったり。愛しているのに素直にいえなくて、憎んでしまったり、わたしのように怖がりで小心であるがゆえに人を威嚇していたりする場合もあるので、始末に終えない。

威嚇、といえば、最近あまり偉くなくなってきたせいか、いろんなひとに、いろんなことを言われるようになった。それはどちらかというと教育的指導、や、だめだしのようなもので、以前から自分ではよく言っていたが、人から言われることはほとんどなかったのだ。それを思うと隔絶の感じがする。

ほんとに威嚇してたんだなあ~。。。。

なにか言われてもほとんど気にならなくなった。
前は誰かに言ってもらうたびに、そんなもやもやしたエネルギー状態の人に言われたくない。と一々思ったり、言ったりして、逆切れ状態になっていたが、そういうこともなくなった。

そのひとにしてみればそう、なんだからしょうがない。

わたしの福助はとても素直だ。

おもしろいことに、自分が自分の福助を認め始めると、人の福助がよくわかるようになった。
そうか。存在が薄まったときに活躍していた徳ちゃんは、福助だったんだな。とか。
ほとんどの場合、機能するのは福助だけでいいんだ。とか。

みんながいっている、その人が言われたいことを返してあげる。ということの意味がようやくわかるようになってきた。
福助はとっても便利。わたしは福助使いの達人になるのだ。

目指せお地蔵さん、としては、なるべく余計なことを言わず、ひっそりする練習をしよう。
そしてそのひとが、自分をどう思っているかを聞いてゆくのだ。
みんなが自分をどう思っているか。みんなが周りをどう思っているか。そしてそのひとが自分の分離感を手放してゆく過程で、愛をどう受け止め、あらわし、学んでゆきたいと思っているのか。

みんなに教えてもらって、わたしの福助は、すくすくと成長するであろう。

今までの人生で、人間らしい感覚がわからない。苦手だわ。とずっと思ってきたが、考えてみれば、人間が苦手、なんて変な話である。
やろうと思ったからには、できるはずなのだ。
どんなひととでも、どんなふうにでも、楽しく語り、気を配り、それなりにゆるく関係を結び、真理の話が必要な人には真理が語れるはず。

失敗が怖いから、なるべく得意なことしかしてこなかったし、苦手でもやる、と決めていたからいろんなことが苦痛だった(苦手、と決めてやるんだから当然)けど、別にそんなこと思い込む必要はなかったのだ。

やる場所に自分がいて、そうすることが必要なら、どんなことでもわたしはできる。
楽しく、自分らしく、みんなと調和して。

失敗しようが傷つこうが福助はただの福助なのだ。
誰にも本質を傷つけることなんてできない。
身体は壊せても、魂は壊れない。
以前は自分で自分を傷つけることはできる、と思っていたが、そうではない。

高いあるいは深い部分のわたしたちには、苦しみという設定がない。

十字架に架けられたイエスが言っていたのは、そういうこと。

もともと傷ついていないんだから、癒される必要はない。

(イエスの言葉については過去ログ、イエスとエルコ参照ください)

一歩前に出よう。そして歩き出そう。最初はちょっとどきどきするけど、歩き始めればきっと風景が変わってくる。

というわけでおしまいです。またね。
by terasumonnmoku | 2009-01-15 20:36 | 最新情報 | Comments(2)

クリシュナ

師匠である大津さんの波動が変わった影響か、細かいところで変化が起こっている。
カフェスタは不調になり、台所の湯沸かし器は、突如燃え上がり、家に修理が入り、妹は結婚し、息子はすべての習い事をやめて、野球をはじめ、などなど。

わたしの調子もへん。いま、オバマ大統領の自伝を読んでいるのだが、少年オバマ君が空港でおじいさんにおどけて見せたところで、涙してしまった。自分には理解できるが(当たり前だ)感動の壷が、説明できない。

人間。に反応しているんだろうな。

波動といえば、大津さんの波動はすばらしく、そこで、何もしなくても、幸せがみなぎっているひとになってしまった。
いままでは真理の話をするときだけ、すばらしい影響力があるひとだったのに、もうそこにいるだけでいいひとになってしまったのだ。

ビバ大津さん。

お地蔵さんみたい。

わたしもお地蔵さんみたいな人になろう。

というのが2009年の目標です。


そういえば、大津さんが変化して、わたしもまじめに、形を持ったクリシュナにつながるようになりました。(いままでは一瞬はわかるけど、基本金色としか認識していなかった。)

でもその姿は、花々や星々を撒き散らしながら笛を吹いたり、奥さんや恋人たちを従えているような愛らしい感じではなく、手がいっぱいあって、顔もいっぱいあって、さまざまな時空に同時に存在し、同時にいろんなことをやっているという巨大なもの。

バガバット・ギーターで、アルジュナが一瞬垣間見たような存在。
とんでもない規模のエネルギーの対流が周りで起きている。

そのクリシュナをみると、みんなが神話で語っているチャーミーな姿が、まるで冗談みたいな気がする。
けれど、それが当時の人にとって、もっとも受け入れやすい神的な形だったのだろう。

手がたくさんあるクリシュナが、すごくなつかしい。
(大津さんいわく千手観音のもとはクリシュナだったそうです。)

と、同時に、これなら、ひととしてたとえどんな形を取ったとしても、とても全部なんて絶対にあらわせない。ということがわかりました。
人間の身体は、これほどの光を、表現するようにはできていない。

だからありんこが見た象の部分映像のように、必要な分だけ、からだが耐久できるぶんだけ、したい学び、果たしたい役割に添った形で、今回のように一見不器用に見える形を選んだんだな。ということが、よくわかった。

全知全能なんだから、大津さんがクリシュナならなんでもできるはず、なんて、考えたりいったりしていたけど、それは全知全能がなんだかわかっていなかったから、言えたことだと反省しました。
あれは無理です。
ひとかけらだけでも表現できたら、それでもう、ものすごいんじゃない?っていうくらいのもんです。
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それでもちゃんとシャープに発信できたら、全知全能的な、大きな気づきが生まれる。
なんですばらしいんだろう056.gif

(大津さんについては友人の徳ちゃんの
http://chandra.exblog.jp

および、http://artandlove.exblog.jp/blog.asp?iid=3&acv=&dif=&opt=2&srl=10547593&dte=2009%2D01%2D08+17%3A43%3A54%2E000

を参照ください。)

この手だらけ顔だらけのクリシュナを垣間見て、人間マトリョーシカ人形説というのを考えました。

人間は、マトリョーシカ人形のように、各次元に規模の違った自分として同時に存在している。
その全ての次元は、真我である我という座で、統合されている。
が、個体としてのひとはその部分の記憶が、失われ、認識できない。
魂が成長し、波動が上がり、マトリョーシカ次元が上がると、愛の深まりによって上がった分だけ記憶が蘇り、物事の理解が増し、エネルギー量が増え、自由度が増す。
しかしどの次元までのマトリョーシカ人形として機能できるかは、どこまで自分自身と認めるにかかっており、ひとによって違っている。

わたしは(上のほうもですが)三次元のマトリョーシカ人形がちゃんと機能していないので、日々を送るのが結構難しいのです。

なので半透明なそれに、このたび「福助」と名前をつけ、ゲームのキャラのように、育ててみることにしました。

福助。よく居眠りしてますが、エネルギーには鈍感です(笑)

よろしくね。
by terasumonnmoku | 2009-01-14 14:07 | 最新情報 | Comments(0)

12月の本

・宇宙への秘密の鍵           ルーシー&スティーヴン・ホーキング(岩崎書店)

こどものころ、こんな本を読んでいたら、科学が好きになったかも。
と思うような本。
時間や空間をを伸び縮みさせ、ドアを開けてで文字通りどこにでも連れて行ってくれるコンピューター・コスモスは、過去生でみたUFOみたい。

・ゴンチチの脳内麻薬書簡       ゴンザレス三上とチチ松村(双葉社)

往復書簡は、たまに読む。結構好きだ。

ゴンチチは音楽と同じように脱力していて、どこにも中心がないような感じが心地よい。
どうでもいいものを偏愛するって、とても楽しそう。
きのこや万華鏡や、セイウチなど。
チチ松村さんも、内田百聞が好きなそうで、やっぱり妄想系のひとは好きなものも似ているのかもしれない(と、思うのは迷惑かもしれないが)。

・容疑者xの献身             東野圭吾(文春文庫)

このミステリーで一番いいのはタイトルにある「献身」、という言葉だと思う。
久しぶりに聞きました。「献身」。
グレアム・グリーンを読んで以来かもしれない。

自分の身の安全を「愛を伝える手段」に捧げる。というような感じだろうか。

最終的にヒロインは、彼の献身を受け入れず、ともに苦難の道を歩むことを決めておわるんだけど、献身を受け入れた場合の、その後の人生というのも、見てみたい。それはそれで、ありだと思う。どっちがきついかというと、案外、安穏な生活のほうかも。
by terasumonnmoku | 2009-01-14 11:08 | 読書 | Comments(0)

情報

「情報」について考えてます。
情報。
本や映画や音楽や芸術など、世の中にはいろんな媒体があるけど、結局のところ、人間が一番おもしろいメディアだな。とかつて思っていたことを思い出したので。。
量的に多い、というだけでなく、詰め込まれた情報自身が、人の中では、刻々と変化するから。

そういう意味で、人の記憶というのは歴史ににている。

誰がどんな情報を有するか、というよりも、その人がその情報をどう変化させるか、ということ。
その変化そのもののほうが重要なのかもしれない。
と思った。
この「どう変化させたか」ということが、知恵というものになるのかもしれない。
知恵は、生きている。

知恵というと、ポジティブなものだけをさすようだが、完全な生きた知恵に向かう途中の段階を「変化」と捉えると、情況は変わってくる。

わたしたちが個体として誕生したとき、まだそれほど波動が落ちていない当初、わたしたちが目指し、作り出した変化は、調和や、発展に向かうものだけではなかった。
くっきりした輪郭を持った個体は、永遠や一つであることを実感するには、不向きだ。
それは一つ一つの閉じた世界の中で、それぞれの小さな夢を描くに適したもの。
閉じた世界で見る夢のなかで起こることは、とてもブリリアントだ。
ぬかるみのようにたくさんの分離に阻まれ、一歩一歩がとても重く感じられることがあるだろう。

しかしどれほど時間がかかろうとも、知恵を得た時点で、わたしたちはいつでも、ただ一つのものである生命の座へ帰ることができる。
知恵と生命は、同じもの。
生きた知恵を生きることが、本当の自分を生きるということ。

わたしたちは、自分が生きる過程で蓄積した記憶の総体であり、
かつ生きた、知恵そのものでもある。

記憶は、「現在の自分」によって、常に絶え間なく更新されている。

わたしたちは振動する。震えながら新しい光を振りまく。

わたしたちは「変化するため」に形、物質を作り上げた。
形というのは、たぶん一種の基盤であり、別の風景を見るための窓なのだ。
変化するために、固着したものを作り出す必要があったんだな。

ただ、わたしたちには、自分がお好みの何かを作り出すたびに、それが永遠にそこにあるように思い込む癖がある。
時間の魔術によって。

わたしたちはなだらかに続く、リボンのような時間の道を歩いているのではなく
点から点へ、意志の力によって、ワープしているだけなので
ほんとうは全てが、そのたびに新しい。

それを完全に自分で認識できたら
肉体なんて何度でも、簡単に再生できるだろう。
実際やってるのだもの。

記憶も肉体も、この瞬間にしか存在しない。

かつてアルコール依存について調べていたとき、全ての依存症の根本原因は、過度のコントロール欲求ではないか、と書かれていた本を読んだ。
情況の全てを、自分の思い通りに制御したい。

だが「原因と結果の法則」によると、物事は、表面意識が望むようにではなく、意識が感じることどおりに現れる。
だから、自分がどんなことを感じているか、ということが重要になってくる。
恵まれた環境の人にいいことがやってくるのではなく、その人の持つハッピーな気持ちに呼び寄せられて、素敵がやってくる仕組みだ。

というわけで理想に近づけようという、コントロール欲求を持てば持つほど、そのひとの置かれた情況は厳しくなる。ということが起こってくる。
求めれば、それがないことが現れる。なぜなら、求める。ということは「ない」ということを前提にして(感じて)いるから。

しかし「求める」をすっとばし、もうそれは「ある」んだ。と思ってしまえば、実態がどうであれ、やがて現象上に「ある」という状態があらわれる。

大きな自分、本質のわたしにとっては、個体としてのわたしが幸せであろうと、絶望の淵にいようと、それはそれで大事な体験だ。

幸せであることと不幸であることの間に
形を通して感じるほどの違いはない。

何をどう学ぼうと、それはいずれ知恵に変わる。
もしかしたら今の肉体を持った自分ではなく、もちこして何世代かあとになっちゃうかもしれないけど。
悠久の宇宙にしてみれば、いずれあっという間。

でも単に一人の人間としては、本質に従い、やっぱりハッピーなほうが、断然いいわけで

ここはひとつ、ぐっとシンプルに行きましょう。

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by terasumonnmoku | 2009-01-11 11:36 | 最新情報 | Comments(0)

記憶について

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記憶って
蟻が見た
象の体のようなものかもしれない。

あるときは耳が見え
あるときは鼻の穴が見え

蟻が受取るのは
そのとき蟻が必要とする
最も使い勝手のいい
「印象」というやつで

どうみられようと
象自身はいつも気分よく
その長い鼻で唄なんか歌っちゃって
by terasumonnmoku | 2009-01-10 23:11 | 最新情報 | Comments(0)

エッシャーとダリ

エッシャーとダリ。 推薦 (1)


生活 > 日常/生活
2007-01-09 10:21:47
アクセス 338


新年、明けましておめでとうございます!
今年はどれだけこのブログを更新するかわかりませんが、気が向くままにやっていきたいと思っています。

なにかが、根本的に間違っているような気がする。
船に乗って、甲板掃除とかがいいのかもしれない。

というわけでエッシャーとダリをみてきました。

エッシャーは初めて♡
DSの無料音声ガイド付き。

キューレターさんのセンスがすばらしく堪能しました。
完成作品の両側に、だまし絵としてデザインが変更される前のリアルなデッサンが、作家の思考経過がわかるように並べられている。
正則分割も、最初はとてもシンプルな分割からはじまって、後の複雑な展開に至る様子がわかるようになっている。

当たり前だけど、始まりはいつもちょっとの違いなのだ。
でも、ついつい、そんなことには気づかず完成型に目がくらんで、自分にはとても無理って思うんだな。

これからはそう思わないようにしよう。
きっとなんでもできる。
ほんとうに、それがやりたければ。

仕事中のビデオの中の、エッシャーの、あまりに楽しげな様子に感動した。
「わたしの作るものは芸術作品ではない。
わたしにとって製作は喜びをもたらす、労働なのだ。」
喜びをもたらすってところがいい。

これはおもしろい美術展でした。
東京在住のかたにはお勧めです。
13日まで渋谷文化村。ガチャポンもあるのでぜひどうぞ!

エッシャーのガイドがおもしろかったので、ダリでも音声ガイド、借りてみてみました。(このできはいまいち。)
大掛かりな個展としてダリをみるのは4回目。
ダリを見るとすっきりする。
作品が整理された夢・無意識だからなんだろうな。
美、ではなく。
それはわたしが普段よく見ていた風景に、とても近いもの。
幻視をそのままアーティスティックに、人に受け入れやすいように描いたのだ。
それを上手に売った。

「ピカソは画家でしかなかったが、ダリはそれを越えたものだ」と会場の壁に書いてあった。
ピカソはたぶん一冊の本で、ダリはパラリとめくれるパンフレットだ。
先輩としてダリに憧れ、わたしはずっと、(象徴としての)ダリになりたかったけど
ようやく終わった。
おかげさまでただの画家のすごみが、ようやくわかるようになりました。
もうダリは見なくてもいいかもしれない。

それにしてもピカソを見ると、スペインだわって思うのに、ダリはそんな感じがしないのはなぜだろう?
スペインにはあのキュビズムの絵に出てきそうな薄茶色をした強烈な岩が、ごろごろおちている場所があるのだ。
岩のラインを見て、そういうふうに人を捉えようとしたら、きっとできる。
ふつうはまず、そんなことは考えないんだろうけど、ピカソだから。

ああ。
そういうことなのか。

岩で人を形作る。
怒りや執着から意味を剥ぎ取り
憎しみとして表された愛の美しさを表現する。

意味のむこうがわにいく。
原初的な夢を、夢見る。

それにしても両方とも尋常ではない混雑で、驚きました。
日本ってすごいなー。
ダリなんて、あっというまに二時間待ちだもん。
平日の朝とかがいいんだよね。ほんとは。

アートに学ぶことはとても多いので、がんばりましょう。好きな人は。
by terasumonnmoku | 2009-01-08 17:45 | Comments(0)

生きる意味が見つからないなら、自分で創って育てちゃおう!というブログです。やっていることはさまざまですが、常に生きることに向かっています。

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