きのうはらぶりぶ、徳ちゃんの、FREE DANCE  + MORE の 日でありました。

いままでは事務所であった、FREE DANCE。

今回は大人なムードで、ライブハウスで、薄暗い、キラキラ輝くミラーボールの下で大音量ではじまります!

(なのにとうもろこしあんど、とうもろこし父を一緒に誘ってしまってごめんなさい。初めて経験する音の大きさに、フリーズし、うずくまってしまったとうもろこしには、後日深い反省をうながしておきました・泣)

それにしても家族の大変ハードな学びが一段落してから、いままではまったく治外法権だったわたしが行きたいイベントに、身内がしきりに参加してくれるようになったのが不思議です。

いいときばかりではなく、参加するに当たっては三人の、いろんな状態があるんだけど、でも、近づこうとしてくれているのかなあと思うとうれしくなります。

科学者の夫と、スピ系の妻というのは、あんまりないとりあわせなのかもしれない。

先日、ひょんのことからOリングの話になり

「Oリングって知ってる?」

と夫に聞くと、

「知ってるよ。実験機材に使うゴムのパッキンのことだよ。」

というので、

「いま巷で言うOリングとは」

と指をOの形にして

ありがとうを言ったり、馬鹿野郎といったりして指の開きの違いを見るという実験をしていたら

ありがとうのときに彼はあからさまに力を抜き

馬鹿野郎の時に、顔を真っ赤にするくらい力を入れたので

ほんとに始末が悪かった。

そして、

数値で測れないことは、存在しないんだよ。

と断言するのだ。

でも

怒った人の作ったご飯と
幸せな人の作ったご飯は

違う味がすると思わない?

というと

それはそうだ。

と、さわやかな表情でこたえる。

それも数値で測れないことだと思うんだけど

なんに矛盾もなく、彼の中では別扱いになっているらしい。

思いの物理的な力を信じない人も、なんの疑問もなく想念の世界に影響を受けている。

というこの世界の、奇妙な仕組み。知れば知るほどびっくり。

宮澤賢治のいうように

科学と宗教が一つになるためには

どこまでいけばいいのかな。

ギリシャ時代にはすべての学問が哲学であり、一つであったのに、
どうしてこんなに散り散りになってしまったんだろう。

再統合することに意味があるんだろうな。

別れた状態で蓄えていた力が、再統合されるときに大きな輝きとなって、わたしたちのもとに還ってくる。

なあんてことを、考えてみる。

もはや、それは違う。こっちが本当は正しいんだよ。という段階ではない。

科学の世界には科学の深まりというものがあり

ゆえにそこでの統合は、わたしが想像し得るような方法でなされるのではなく、

それぞれの創意工夫によって、個人には全く想像のつかないようなレベルで、
多次元的多層的かつ真に創造的に、行われてゆくに違いない。

見えないところで確実に。

そのようにしてわたしたちは、

それぞれに宇宙を、ユートピアを、未来を、創っている。


信頼しよう。

あなたやわたし、そしてわたしたち自身の力を。

勇気を。

創造性を。

それはこれからがんばって発揮されるものではなく、

いままさにやっていることのなかに、既に存在している。

必要なのは自らの意思でそこに価値を見出してゆくこと。

探すのではなく、

信じて、決めることによって、それぞれが創ってゆく。

ところでダンスの感想ですが、

「昨日の会は、なかなか面白かったよ♪あれは徳ちゃんの美声に、みんなが癒される企画なんだね!
自分の知っている往年のヒット曲とかがあれば、より盛り上がったんだけど」

とのことでした(笑)

ごめんね。

そしてほんとにどうもありがとう!!!

みんなで踊れて、ほんとに楽しかったよ☆彡
by terasumonnmoku | 2011-07-28 21:19 | Comments(0)

人や銀河や修羅や海胆は

THEATREGROUP ”OCT/PASS"のお芝居。

「人や銀河や修羅や海胆は」

7月16日の錦町公園の公演を見にゆく。

どんどん暮れてゆく街中の公園で、木々の緑に切り取られた丸い空の下で、
幻のように登場しては消えてゆく人物たち。

大笑いしながらも、切なさが胸に迫る。

とても大きな出来事があって、わたしたちはそれぞれに、大切な何かをなくしてしまった。

でも、その意味が、本当には理解できない。

だから心はまだこんな夕暮れのなかで、立ち尽くしたまま

なくしたものが、そっくり同じ形で戻ってくるのを、待っている。

失うはずのない、大切な家族。

みんなに温かい思い出をくれた、美しい家。

見慣れた街並み。せわしない日常と、顔見知りの人たちの笑顔。

当たり前に過ぎてゆく毎日。

その日を前後にすべてが変わった。

だけどわたしたちには、その日の前後を、くっつけるすべがない。

津波と地震がおきる前の人生と、起きた後。奇妙に変形した別の人生が、あるだけ。

小さな広場で、お芝居を見た。

賢治の世界が、くるりくるりと万華鏡のように、いろんな輝きを見せながら温かく広がるのだ。

お団子を食べようと試みる鹿。めんどな裁判。殺したものと、殺されたものがともに乗りあう鉄道のなか。

幽霊と幽霊が出会うほんの一瞬の、またたきのような、わたしたち。

芝居の進行によって、丁寧に、昨日と今日の途切れた糸が紡がれてゆく。

わたしたちはそれを、ほんとうになくしてしまったわけではないのだと。

形を変えて、大切なものは残り続ける。

どこまでも。どこまでも。

芝居は祭礼なのだ。と徳ちゃんがブログに書いていたけど、ほんとうにそうだ。

それは見えないものと、見えるものを、つなぐための場所。

貴重で重要な、かけがえのない時間だ。

芝居を泣き笑いしながら見ているうちに、
ユーモラスで、ちょっと奇妙な登場人物が繰り広げる、微妙にフェイクされた疑似日常体験の中で、
ゆっくりと、痛みが、癒されて行くのを感じていた。

わたしたちは大切なひとやものを、もう見ることはできない。

けれどもこれから出逢う人や、ものの中に、その輝きを、見出すことなら、もしかしたら、できるかもしれない。

少しずつ心を自分の中の「ほんとう」、に、向けようとするうちに、
青い光が、ふつふつと、ここでも、そこでも、温かく燃えていることを、知ってゆくように。

なにがほんとうで、なにがうそか。
何が大事で、なにが大事ではないのか。

ひとりひとりが自分の深い魂の奥に答えを見出すとき、
科学と宗教は一つのものになる。

家族で感動とともに見せていただきました。

胸のある母と、髭のある父に、大きな声で笑い、また泣きました。

昨日と今日と明日が、ゆっくりとつながってゆきます。

素晴らしいお芝居を、ほんとうにありがとうございました。
by terasumonnmoku | 2011-07-24 19:15 | Comments(0)

形を大切にする。

わたしには、肉体感覚があまりない。

だから、やたらものにぶつかる。自分に足があることを忘れているために、四六時中ゴミ箱や、公園のベンチなどに激突するのだ。歩く時も宙空にしか目がいかず、足元がおぼつかない。足はいつも傷だらけで、可哀想なほど。

少しは学習すればいいのだが、どうも意欲が低いらしい。

そんなわたしにも、肉体的に唯一しっかりした感覚がある部分がある。
それは自分の性的なラインを守る、というところ。

そういう関係性を持ちたい人と、もちたくない人の間に、くっきりした線がある。
どこで線を引くか、ということに違いはあっても、この線自体は、誰にでもあるものだろう。

人間として好きというのと、性的に惹かれるというのは、まったく次元の違う問題である。

近親相姦がだめなのは、秩序を破壊するからだ。

秩序が破壊されると、アイデンティティが脅かされる。

なぜなら自己というのは、自分、だけでなく、(秩序によって形成される)ひととの関係性の上に、成立するものでもあるから。

わたしとしては、おとなである当事者同志の合意と、最低限の周りからのコンセンサスがあれば、ゲイはもちろん、SMであろうが、スカトロであろうが、スワップミーティングであろうが一夫多妻であろうが、どんどんやればいいと思うが(だからといって浮気されるのはいやだよ!)

どこか未開の部族のように、父は必ず娘と婚姻する。という文化がある場合を除いて(そんな文化があるかどうかは知らないが。)、NOといえない相手にそれを強要することは、信頼を損なう行為であり、やってはいけないことだと思う。

三次元社会では、他人同士が手を携えて、美しい社会をつくってゆく。ということが可能だが、
手と手をつなぐためには、お互いの形を尊重する必要がある。

人は時に、壊れたりするし、どうしようもなく愚かしくなったりする時がある。

個人的にはそういうのも(自分自身の逸脱も、ひとのそれも)、すごくおもしろいと思うのだが、
そういうことも含めてたうえで、

形を大切にする。

って、とっても大事なことなのではないだろうか。

危害を加えるーことは最小にする必要があるけど

自らの学びとして、

壊れる自由、

を含めて、人を愛する。

形を大切にして、手をつなぐ。

あるべき基準のすべてを相手にゆだね、

自らは手放して、

変化してゆく自由ごと人を包み込む。

そのようにして、

どこまでもどこまでも、


人と人とが、


手と手でつながってゆくその先に、

わたしたちの


新しい未来がある。

なんちゃって。
by terasumonnmoku | 2011-07-15 21:50 | Comments(0)

大津先生のお話について

よくここにセミナーの感想を書いているが、エナジーの感想ばかりで、お話の感想がない。

それは、お話の内容が、聞きなれたものか、もしくはまったく新しいもので、
耳にしても聞いているこちら側の経験値が貯まらないと、体に入ってこない
(聞こえていても、頭の中で意味をなさないというか)という性質があるために、

感想の書きようがないからである。

それって、いいことなのかどうかわからない。
宣伝上はあんまりよくないのかな。

それこそ、先生の話の内容が斬新で革新的だという証明でもあって、いかんともしがたい部分なのである。

どんな人の話でも、しようと思えば要約はできるはずなのに、腑に落ちないと説明できないし使えない。実に不思議だ。

だってそうじゃないですか?

わたしたちは、愛そのもの。

と先生はよく言うが、これは言霊であって、説明ではない。

愛ってなに?

男と女の愛?

親子愛?

国家への愛?それとも宇宙愛?

先生がいうのはそうではなくて、自己増殖する知恵の総合体としての愛でもあるし、人類単体としての一つの意識のあらわす、生命のダイナミズム、のようなものでもある。

って書くと、ほうらわけがわからない!

でも、それでいいのだ。

大津先生が「愛」といったら、↑を含むもっと超でかいものであり、それは大津先生ならぬ聞いている私たちが、成長することによって、はじめて自ら意味を獲得することができる。ようなものなのだ。そして獲得したからには、速やかにそれが使えちゃうのだ!

びっくり!

だから、そのお話のどんな説明も、説明にならないのである。
(もうこれからは説明されてわかったような気になるとか、説得される、ような時代じゃないのだそうだ。体感体得して、実行する時代なのだそうだ。だから直接かかわりあうー口伝で伝わってゆく秘儀のように・笑。ー必要があるようだ。)

100人の人がいれば、100通りの段階があり、100通りの受け取り方がある。

100の道を通って植えられた種は、その人が成長するちょうどいい頃合いをもって発芽し、美しい花を咲かせる。

なんでもない瞬間に、材料がすべて整って、「あ!」っと必要な場所にはまり、世界が新しい意味を帯びてそこに成立しているのを我々は知ることになる。

だからまかり間違ってこれを読んでしまったあなたも、いつか、チャンスがあれば、そのお話を聞いてみることをお勧めします。

なにをいってるかまったくわからない。

もしくは、当たり前すぎて、びっくりか。

いずれにせよそこでやめないで、繰り返し聞いているうちに、なぜか突然、あなたは新しい自分に出逢っていることに気づくでしょう。

そしてそのひとを、きっと、あなたは好きになる。

なんでか知らないけど(笑)

そういう仕組みになってるらしいです。
by terasumonnmoku | 2011-07-06 20:37 | Comments(2)

シナプシス

仙台、緑水庵という茶室を含む美しい日本庭園であったという、撮影会の話を聞く。

なんでもアニメのコスプレの人たちが
モデルになったカメラの撮影会だったらしい。

せっかくそんなに素敵なところで遊べるのに、アニメのキャラで撮影会っていうのはあんまりだ。(まあ、好みの問題もあるけど)ということになり、話していた人と、それぞれそこでなにかをやるとしたら、何が登場したら面白いか。お互い考えてみよう。

というゲームをすることになった。

サクッと思いついたので、とりあえずメモ。

シーン1)緑水庵入口

入り口から這うようにカメラが入ってゆく。テクノな三人編成のバンド。全身白塗り。音楽は軽めだが大変うまく、体の前面に「がん」「ばろう」「東北」のロゴ。ゆっくりカメラがパンして、背面に回ると、「お前」「が」「がんばれ」のロゴ。

カメラが戻ってくると、小太りで人のよさそうな全身刺青の男がにこやかにカメラを茶室     へと導く。

ずっと音楽が演奏されている。

シーン2)茶室

お茶中である。茶をたてているのは、チャーリーとチョコレート工場に出てきたルンバ人のような中年の小人。お茶を待っているのは、激しい盛りメイクの女子高生(制服着用)と、ヌードモデルのマイちゃん。マイちゃんはかなり半裸な感じだが、まったく関係なく二人は楽しくガールズトークの真っ最中。

     女子高生「まいちゃんさんはー、どんな人が好きなんですか?」

     まい「そうねえ。あたし、鼻の平らな人。」

     女子高生「平ら?」

     まい「そう。チャン・グンソクみたいに鼻の、ここ」(鼻梁を指さす)「ここんとこが         ね。真っ平らな人が好き」

     女子高生「それってどーなんですか」

シーン3)茶室前面の庭
    

お茶をしている人の背後から縁側へカメラが望む。全身黒タイツのくみちゃんが、ダンスのひとたちと一列になって、どじょう掬いのような踊りをしながら通り過ぎてゆく。みんなすこぶる真剣な顔つき。音楽がフォークロア調に変わっている。どこまでもどこまでも無限に続くダンスの行列。カメラが追った列の脇に、真面目な顔をしたタカシさんが、一心不乱にカフォンをたたいている。スーツ姿の女性がきて、タカシさんの脇に置いてある事務机に座る。鞄を開け、700万くらいの札束を出して、一通り手で数えて、うなずき、またバックにしまう。そして携帯でどこかに連絡する。「はい。間違いありません。お金は確かに、受け取りました。これから送金します。」話しながら退場する。

彼女と、いれかわりでぼけっとしたお爺さんが入り口から入る。タカシさんと踊るダンスの    人たちの列をしげしげながめる。

気が付くとどこからともなくおじいさんのわきにおばあさんがたっていて

  「おもしろいですね」とおじいさんにいい、頷きあう。

シーン3)老カップル
 
カメラはおじいさんとおばあさんのカップルについて入り口に戻る。

   おばあさん「さっきね。カラスが琵琶を食べているところを見ました」
   おじいさん「びわね」

おじいさんの視線を追うカメラ。テクノバンドがまた演奏を始めている。カメラは背中からバンドに迫ってゆく。そこには「ありが」「とう」「東北」のロゴ。ひとしきり移した後で、舐めるようにカメラが前面に回ると、そこには「きっと」「だい」「じょうぶ」のロゴ。

音楽が急に大きくなる。

    「だいじょうぶだいじょうぶ。きっとだいじょうぶ。だいじょうぶだいじょうぶ。きっとだ    いじょうぶ」

    「だめでもいい。なんでもいい。生きていればきっとだいじょうぶ」

琵琶を食べるカラスのクローズアップ。

「だいじょうぶだいじょうぶ。きっとだいじょうぶ。だいじょうぶだいじょうぶ。きっと だいじょうぶ」

「だめでもいい。むしろだめなほうがいい。なんだっていい。どうだっていい。だめでいい。だめなほうがいい。なんでかしらない。でもそれでいい。でもそれがいい。でもでもでもそれがいい」

門からカメラが出てゆく。門の外には小太りの刺青の男がにこやかに手を振ってお見送りする。奥を覗くと登場人物が全員身をせり出して、激しく手を振りながら満面の笑みで見送っている。

*ルンバ人以外は実在の人物がモデルです。
気に障ったら連絡ください。速攻で削除します。要はタカシくんとくみちゃん一家が見たいだけ。のような気も・・・

ヌードモデルのマイちゃんと女子高生のガールズトークは、紙袋をかぶった、半裸な男性三人の世間話でも可。内容は上司の愚痴など。
by terasumonnmoku | 2011-07-04 19:26 | Comments(0)

生きる意味が見つからないなら、自分で創って育てちゃおう!というブログです。やっていることはさまざまですが、常に生きることに向かっています。

by terasumonnmoku
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