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魂の成長。

こんばんは!

以前書いた「夫の新しい仕事」という日記を読んで、
友達のくみちゃんが怒ってくれました!
「もうそんなになるなんて、しかも、女の人の(笑)サポートをするなんて!!!」

彼はもう死んでいるので、どう死んでいてもいいような気がしますが(というか喜ばしいことだと思うけど)、
そんなふうに怒ってくれたことが、とっても嬉しかったです(笑)
友達っていいなあ(^○^) 
(まめちゃん出産おめでとう!!!ほんとに良かったね(T_T))

ところで、むんむんと、微妙な年ごろのとうもろこし君。
あいかわらず、いろんな顔をして帰ってきます。

思春期と、中総体の練習と、学校の課題の多さに顔つきが変になってきたので
「学校の課題なんてどうでもいいんだから、思いつめるんじゃないよ!」
といって送り出してしまった。

目先のことに、そんなに必死になることもないんじゃないか。と、最近思う。
日本人はほとんどのひとが、もう十分がんばってる気がします。

だめだったら、だめでいい。
生きていれば、何度だってやりなおせる。
重要なのは、そこで自分が挑戦した、という事実のほうなんじゃないのかな。

「父親が死ぬってさ、自分っていうのが、一枚の板だとしたら、そこに大きな穴が開いた感じなんだよ。
心の中に、いつも風が吹いてるの。わかる?」

と、ある日とうもろこしに聞かれました。
それをわかる。と言ったら、失礼な気がした。

みんな、種類は違っても、そういうものを抱えて生きているんだろうな。
きつかったりもすると思う。

焦らず、はやらず、道端の花とかを見ながら、のんびり行きましょう。

最近、いろんな立場のいろんな人に会うようになって思うのは
立派な仕事や業績のある方のオーラが、そのひとのやっていることの割に、
小さかったり、光りが弱かったりすることです。

オーラの大きさというのは魂の成長に直結していて
オーラが育っていないということは、
やっている良いことが本人の魂の成長に結びついていない、
ことを指すと思うのですが、
どうしてなんだろう?とくみちゃんに聞いてみたところ

「本人が、大津先生の様に、自分を全知全能(!)だとは思っていないせいじゃない?」
という答えが返ってきました。

(ここでいう「自分」とは三次元的に機能している自分を指すのではなく、巷のスピリチュアル的なハイヤーセルフということになりますが、大津先生が変わっているのはハイヤーセルフ―厳密にいうと違いますけど=本来の自己そのものだ。と考えている点です。)

確かに。そう考えている人には
先生以外には、まだ会ったことがない(笑)
どこまで自己肯定できるか。ということが重要なのか。

そういえば、すぐれた俳優さんとか、ものすごい絵を描く人とか、
仕事のときは、とっても立派なオーラなのに、普段はふつう。というケースも多い。

たぶんそのひとたちは、仕事をしている自分に関してだけ
神がかったほどの自信―自己肯定感ーがあるのかな(^○^) 

ただ現世的には、いくらオーラが大きくても、すぐ、目に見える社会貢献に直結するわけではないので、
その辺が悩ましいところです。

形のある世界とない世界とでは、価値観自体が全然違うんだろうなあ。

実際によいことをする。ということと、
そこから本人が学んで成長する。ということはイコールではないらしい。
というのがおもしろいですね。

学んで成長することが魂の目的なので
えらいひとになったり、勉強が出来たりすることが大事なわけじゃない。
というのがみそです。

いまの社会では、そのひとの社会的地位の高さや、名前の売れ方と
全体の幸福に対する貢献度合いには、全く相関関係がないので、
社会的に偉い人でかつオーラが立派だという組み合わせは稀です。
(なかにはもちろんいます。が数は少ない。)

それは疑問の余地はないのですが、不思議なのは立派な仕事をして、周りにいい影響をたくさん与えているのに、本人のオーラだけがとっても小さいというケースです。
人の目を気にしているのかな。人にどう思われるか。ということを大事にしていると、成長するのは難しい。

というわけで30日のセミナーにわたしも行きます!
魂の成長に興味のある方は、ぜひ当日お会いしましょう(^○^) 
by terasumonnmoku | 2013-05-28 21:54 | スピリチュアル | Comments(0)

国連の勧告!

こんにちは!満月ですねえ~
みなさま、いかがお過ごしですか?

わたしは元気です(^○^) 
国連から日本政府へ、過労死問題に対する勧告が出ました!
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/130523/wec13052313100003-n1.htm

あまりにうれしくて眠れなくなってしまった\(^o^)/!

過労死過労自殺は世界中にありますが、
日本の様に先進国で労働基準法が整備された中、
しかもホワイトカラーに起こることはめずらしい。

設立総会にも出席してくださった遺族会の代表の方や、
過労死弁護団の方が、実際にジュネーブに行って
懸命にロビー活動をした結果こういう結果がでた。
ということが、ほんとうにありがたく、うれしいです(T_T)

それにしても会をたちあげて最近思うことは、夫の死からほどなくして
直接上司の方やその上の方に、一対一でお話を伺うことができて
ほんとうによかったな。ということです。

相手方の人となりを知らなければ、
その後どのような展開をしたとしても、ゆるすことはできなかったと思うし
そうしていなければ、いまでも悶々としていたと思うのです。

対象のないネガティブな気持ちは、時間とともに熟成して、
相手方がモンスターの様に育っていったような気がする。

自殺した夫の妻です。と大学に電話をかけて、
一人で乗り込んでくる妻であるわたしを見るのは、
みなさんにとって恐怖映画みたいだったと思いますが(笑)
やっている本人も怖かったです。

そんななか、感情で突っ走るのではなく
その場その場で精いっぱいのことができたのは、
ほんとうによかった。

その時点では気持ちは全然ついてこなくて
怒りすぎて血管が切れそうになったり、
ご飯が食べられなくなったり、まあ大変でしたが

自分の(気持ちとは裏腹な・笑)行動に関する矛盾や葛藤は時間が解決してくれたらしく
今頃になって、かつて自分が言ったことややったことに、
ようやく気持ちがついてきた気がします(^○^)

何事も形から、というのは本当ですね(笑) 

今回、事前にマスコミに露出することもあって、
筋を通すために希望の会の設立総会のお知らせを手紙と一緒に、
関係者の方に一通りお送りしました。

あの文章は、読む人によって印象が全然違う、踏み絵的な要素があるらしく
反応もさまざまで、中にはびっくりするようなことを言われたりもしましたが
そんな中、大学の再犯防止委員会の委員長さんが、大変誠実なお返事をくださいました。

組織の中のことなので、
一人に誠意があっても、すべてが変わるわけではないと思うのですが、
わたしはとてもうれしかったです!

ダメージを受けた時に、直接その相手に、
可能な限りそのひとが受け取れる形で意見を言う。
というのは、案外難しいことらしく
これができるのはわたしに与えられた数少ない才能のうちのひとつなのかもしれない(笑)

一通り形を付けてどうやら少し頭が整理できて来たものと見えて、
この頃やっと、普通に本が読めるようになりました。

大きな問題を抱えていると、新しい知的刺激が入らなくなってしまうのです。
そのことしか考えられないのに、そのことについてもまともに考えられない。
とうもろこしもそうだったそうなので、なのに勉強しろというなんて、
ほんとに可哀想なことをしました(T_T)

それでも過労死や自殺や会の関係のことについては、
やる気がある割にブレーキがかかったように動けない状況が続いています。
それは人間だから、しょうがないですね。
できる範囲でぼちぼちやっていこう(^○^) 

なんだか大きなことが、終わったような気がします。
そしてまた、何かが始まるのでしょう。

どんなふうに何をはじめるのかな。
これからが、楽しみです!
by terasumonnmoku | 2013-05-25 23:01 | Comments(0)

徳ちゃんのセドナの石

徳ちゃんのブログで「セドナの石のテレポーテーション」と「移動先判明」の記事を読む。

セドナの石は見るからに内気で、いつもあらぬ方向を(まあ、感覚的に)向いているような、気になるペンダントだった。

石とワイヤーが分離した感じが妙で、見るたびに違和感を感じていた。
(わたしはこういうことに、悲しくなるほど細かい(T_T))

で、今回記事の後で写真を見ると、ワイヤーと一体化した石がこっちを向いている。
まだ寝起きだけど、ぽっとあたたかく、いのちをもって開いていことうとしている。

ひろみんから石がなくなったという話を聞いたときは、暗い隅っこに落ちて呆然としている感じがしていたが、ワイヤーから抜け出ていたとは思わなかった。

るなちゃんのメールを読んで、その前の段階をトレースしてみたら、確かにインドで、汚い指をした年配の男性にぼろでできた袋に入れられており、(ここから先は個人的な印象だが)屋台に並べて売られ、美しい女性に購入されて清潔な布に包まれ、そのひとの自宅に向かう途中で、もどってきた・・・・ような気がする。

その女性は石を買うことで、徳ちゃんのエネルギーにつながる必要があり、徳ちゃんもその男性と女性を介することで、自分の中の何かと何かのエネルギーをつなげたのかもしれない。

しかし本体はそういうイメージ上の旅をしていただけであり、
何かの拍子に(しかもなぞの苦難の果てに)納戸にもぐりこみ、暗い隅で夢を見ていたとも考えられる(笑)

現実ほどバーチャルなものはなく、これは単に解釈の問題なので、どう考えてもいいのだと思う。

わたし的にはひろみんの手を借りて大々的に断舎利を実行中だった徳ちゃんの家の
極端な変化が別の波動を生み出し、
それが石に影響を及ぼし、時間や空間を飛び越えた共鳴が起きて、
必要な段階を経て戻ってきた。ということであった気がする。

内と外を一つにする、その過程を象徴するように。

(最初の日記に書いてあったボールペンの失踪も同じで、時間や空間を飛び越えた共鳴を起こすことで、わたしが自分の分離された側面と新しい契約を結んだー統合した。という解釈をすることもできるが、確実に言えるのは、新品だったボールペンが紛失し、何日かたってなくなった同じ場所から出てきた時にはぼろぼろになっていた。ということだけだ。)

これはセドナの石に限ったことではなく、人のありようもすごく似ている。
と勝手にわたしはおもう。
本体は三次元上普通に生活しているように見えても、
心ここに在らずで生きている人がほとんどで
本質的には失踪中であり、たまにそのひとがとても喜んでいるときなんかに、
本人の中に帰っている。(ように見える)

その場合は規模の小さい失踪と顕現で、この石のように物理的に消滅し、
時を置いて戻ってくる、ということであれば、キリストの復活、
なんてのもある種の瞬間移動だと思う。

復活しないで肉体だけが消滅し、
魂だけが別の肉体に還る「チベットの死者の書」バージョンもあり、
その際は消えた肉体の後に、なぜか爪だけが残されるのだそうだ。

普通の人は、亡骸を残して死に、やがて別の肉体を獲得してまた生まれるが(輪廻転生を信じているので)やりようによっては、体と心の波動をきれいにそろえ、「死ぬ」という手続きなしにただ消えて、別の場所に焦点を合わせて再生する。っていうのも、充分可能である気がする。(みたことはない)

ひとりのひとにはたくさんの側面があり、
ほとんどの場合、それぞれが分離した(調和を欠いた)状態にある。

分離しているがゆえに、
多くの人が多彩な広がりを持った生命としての自己を生きることができず、
表面的な人生を送るにとどまっている。

それではひとと深く関わる実感を持つことができないので、
常に自分に認識し得る最高の「中の人」と話をしようとしているが、
このやり方だと、ある程度目覚めた人にしか働きかけることができない。

で、この最高の中の人、という自分の認識の仕方が違うのかも。
と、セドナの石の話を読んで思った。

何かが分離している。
そんな時、

「英語のpersonは、ラテン語のpersona(ペルソーナ)から来た言葉。“per” は「通じて、貫いて」の意味であり、“sona”は「鳴ること」を表す。人間とは、自分を貫いて鳴り響くもの、何かに共鳴する存在であることを示している。」

という言葉をネット上でみかけた。

貫いて鳴り響く、からには、いまここで、既に鳴っている物があるに違いない。
たぶんわたしには、それが見えていないのだろう。

それは中の人だけでなく、外の人も一緒に響いているはず。

そう考えるとひとはマトリョーシカのように入れ子状になっているのではなく
形状はあくまで結果であって、本体は波の鋳型というか、いわゆるゲノム的なものなのかもしれない。

という結論に達し、ゲノムが語る生命像という本を買ってみましたが、
買ったところで、この日記はここでおしまいです(爆!むずかしい~)
by terasumonnmoku | 2013-05-19 14:02 | スピリチュアル | Comments(4)
ソフィ・カルは1953年生まれのフランスの女性現代美術作家。
写真と文章を用いた物語性の高い作品で知られる。

彼女の他の作品には、街で拾った見知らぬ人のアドレス帳に記載された人々にインタビューを行い、持ち主がどんな人物であるのかを、実際に会うことなく浮かび上がらせた
「アドレス」があり、ソフィ・カルはその作品を作ったことで、30年前に訴えられている(!)

この作品展「最後のとき/最初のとき」に展示された一連の作品は

1986年に作られた、生まれつき目の見えない人に「美のイメージとは何か」を尋ねた 「盲目の人」という作品で得られた、ある男性の回答
      「わたしの見たもののうち、最も美しいもの、それは海です」
という言葉に触発されて、創られたもので

2011年の「海を見る」ー生まれて初めて海を見る人々の表情をとらえた映像作品。

と、2010年に作られた「最後のとき」ー突然視力を失った人を取材し、写真とテクストで綴った作品の2部構成になっている。(両方とも場所はイスタンブール)

目の見えない人に美について尋ねる。というような、
言いようによっては残酷で、ぎりぎりな感覚が好きだ。

ぎりぎりを突き詰めていくと、突然視界が変わり、前提が崩れ、別の世界が立ち現れる瞬間がある。
それをわたしはアートと呼ぶが、呼ばない人が大勢いても全然不思議ではない。

「海を見る」が展示されている部屋には、10個のスクリーンがあって、そこにイスタンブールの内陸部に住み、テレビすら見たことはないのではないか、と思われるような人びとが初めて海を見ている後姿が、一切の説明なくただ、映し出される。

しばらくして、彼らはそれぞれのタイミングでこちら側を振り向くのだが、その表情がすごい。

同じ海の、同じ風景を目にしているはずなのに、一人一人の心象風景のあまりの違い(純粋にわたしにとっての事実)に、慄きを感じた。

ある人の海は、単に理解できない「不可解」な表面であり、ある人の海は静謐で哲学的なありようを見せ、またある人の海は立体的で、光や色が際立った生き生きとした喜びに満ち、ある人の海は存在の根源に深く立ち入ってゆくような、神秘的で深い余韻を醸し出している。

人の数だけ、海がある。

それはもはや、認識とか視覚刺激の問題というよりも、その人自身がどれほどの事物に対する許容量を持っているか、どこまで自らの魂の深みに降りていくことができるか。ということについての、それぞれの告白を聞いているよう。

ひとはひとりひとり、違う世界を生きているらしい。とは漠然とは思っていたものの、まったく同じものを見る、大体同じ境遇の人の心象風景を同時に認識し、その差異を目の当たりにしたのははじめての経験だった。そこがまさに衝撃的だった。

2部の、「最後に見たもの」についての印象は全く異なっている。

その人たちの持っているイメージの情緒的側面は、そのひとが「視覚を失った」事実をどのようにとらえているかということに大きく左右されているように思われた。
ある程度それが許容できているひとの持つイメージは、どこかノスタルジックで、その人の中に二人の人間がいるような面持で立ち現れる。

見える世界で機能していた自分と、盲人としての別の人生と。

二つの世界の橋渡しをする最後の記憶は、誇らしかったり、悲しかったり、ちょっとおもしろかったりする、中身の分からない瓶に張り付けられたラベルの様に、残っている、らしい。

わたしが一番気に入ったイメージは、病気で徐々に視力を失った人の最後の記憶だ。

視界がぼやけて道路標識のポールと、傍に立っている女性の太ももの区別がつかず、転びそうになり、思わず女性の足をつかんで殴られたという経験を語る男性のイメージ。
たぶん厭な記憶ではなく、そういうことさえ大切だったほろ苦い記憶として、今もその人の中で生きていることがとても美しいものに思え、胸に迫る。

でも視覚を失ったことを、受け入れることができない人の記憶は、あまりにも「現在」でありすぎ、ただただ圧倒される。
彼らはその「苦痛」を日々新しく更新し続けることで、目が見えない人として生きていくことを、懸命に拒絶しているよう。

そのひとたちには、変化してゆく日常としての「現在」は、たぶん、存在しないのだろう。
そういうあり方を選択しなくてはならない理由は理解できる。
ただ、イメージは共有できない。
昇華されない苦しみは、誰のものでも個人的で、普遍性を持たないものなのかもしれない。

喪失ーについてがテーマなのだろうか、と漠然と考えてこの展覧会を見に来たが、これはもしかしたら、喪失というよりは獲得―変化についての物語だったのかもしれない。と、後になって思った。

海を見た人は、「海」という概念を獲得し、
視力を失った人は「視覚による認識手段を失う」という状況を獲得したのかもしれない。

わたしたちがこの作品展によって見ているのは、大きな衝撃によって、ある世界観が崩壊し、その人の中で世界の意味や秩序が再構成されてゆく、その過程だった気がする。

内的世界の秩序を再構築しつつあるさまざまな段階にいる自己像を見ているような、不思議な既視感があった。
by terasumonnmoku | 2013-05-15 18:56 | アート | Comments(0)

夫の新しい仕事。

設立総会が終わって、とうもろこしのことが少し落ち着いて、
ようやく渡された会の過労死ホットラインの電源をONにすることができた、
てらすもんもくです。

まじめに怖かったです。
自らの痛みを認めて向き合うことが、これほどきついとは思いませんでした。

まだ完全ではありませんが、みんながいてくれたから、
ここまでくることができたのだと思います。
ほんとうにありがとう。
感謝してもしきれません(T_T)

この過労に関する問題は極めてハードで、
ようやく向き合えるようになったくらいで、どれだけのことができるかはわからないけど、
わたしの持っている傷と、同じ性質のものからできている違う痛みを持ったみなさんと
ただ「一緒に生きていく」ということをしていきたい。
すごくしていきたいです。

とうもろこしと自分が、いまこうして一緒に生きているように!

そして設立総会の数日後、また夢を見ました。

夫と一緒に、どこか別の世界で大津先生の講義を受けていたのですが(内容は忘れた)
それが終わった後、彼が改まって

「あのさ。おれ、仕事を始めることになったんだ。」
というのです。

一瞬わたしは、彼が死んでいるのか生きているのかわからなくなり

「え?」と聞き返すと

どこだか大学のなんだかミサコさん
(なんではっきり覚えてないんだろう(T_T))
という女性の若手研究者の、サポートをすることになったのだ。
ということでした。

なんだ。やっぱり死んでいるんじゃないか、
とわたしはムッとなり、

死んでるなら死んでるで、他の人のところになんていかないで、
しっかり私ととうもろこしのサポートをしてくれればいいのに、
と理不尽なことを考え、
すっかり不機嫌になって目を覚ましました(笑)

それでしばらくむかむかしていたのです。

でも、死んだ人が自らの学習のためにほかのひとのサポートに回る、というのは
聞いたことのある話です。

セラピストとしての経験の中にも、同じようなものがあったので、
死んである程度学びが進むと、そんなことをする仕組みになっているのかもしれない。

しかし夫の場合、あの死に方にしては、すごく展開が早い気がする。
もともといい人だったとはいえ、そんなにあっさり楽になっていいのか!

喜ぶべきことなのに、それがまた面白くなくてむかついていたのですが、
よく考えるとわたしのこの一年の格闘は、
もしかしたら夫が一緒にしてくれたからこそ、できたことだったのかもしれない。

一緒に怒り、一緒に苦しみ、一緒に泣いて、
一緒に愛を見ていこうとしてきたのかもしれない。
身体はなくなっても、ここまで一緒に、生きてきたのかもしれない。
そのようにしてこれからも、また一緒に生きていくのかもしれない。

それって、ものすごいことのような気がする。。。。。
そう思ったらうれしくなって、じーんとしてしまった。

それにほかの人のサポートをしていようと、全然大丈夫なのです。
同時にいろんなところで、いろんな活躍ができる。

いやあそれにしても、わたしって、小さいな。
自分自身にやれやれ、って感じです。

あ。これも愚痴ですね(笑)

なんと驚いたことに設立総会が終わって、自分の痛みを認められるようになって、
わたしはようやく、人に愚痴をこぼせる人になりました!

新月の日に友人のぷりちゃんに、これは愚痴だよ。と言いながら
責任の重さについて盛大にこぼしていたら
思い切り大笑いされてしまった。

うーん。愚痴が言えるって、すばらしい。

みなさんはどうですか?
ちゃんと愚痴、言えてますか?
やせ我慢、していませんか?
やせ我慢もいいけど、愚痴もいいです(^○^) 

このようにしてわたしは、また、人生における新たな局面を迎えています(笑)
生きてるって、おもしろいね。
by terasumonnmoku | 2013-05-11 23:03 | 家族 | Comments(4)

わかりあうということ。

ゴールデンウィークも終わりましたね!
みなさま、いかがお過ごしですか?

今回のうちのゴールデンウイークは、
じゃっかんビターなものでした。

でも去年の今ごろに比べれば状況は断然いいし、
例年家族行事で充実していた行楽シーズンに、
いきなり元気いっぱいでも、それはそれで複雑なので、
ちょうどいい。

息子と一回衝突するたびに、収穫があります。

ぶつかるたびに彼が

「母さんには、おれの気持ちはわからない。
わからないでしょう?」といって更に荒れ

どう働きかけても解決せず、
本人の中で、大きな問題であるようだったので

今回試しに、別の角度から話をしてみることに。



「とうもろこしには自分の気持ちがわかるの?」
と切り返してみると

「わからない」

「本人にわからないんじゃあ、母さんにわかるわけないよ。
そう思わない?」

「・・・・・・」

「とうもろこしが辛いように、母さんにも、夫に自殺された妻としての痛みや悲しみがある。
けど、母さんはそれを誰かに癒してもらいたいとは思わないし、
わかってほしいとも思わない。
そもそも、そんなことができるとも思ってないの。
そういうのって、結局自分だけのものなんだよ。」

という会話の翌々日、

放り出してあった国語の宿題のプリントの、課題の詩の解釈欄に

「人は、自分で自分のこともわからないのに、誰かにわかってもらおうとする」

と書いてあった(笑)

素直だ。(T_T)

(そしてその裏の道徳のプリントには
「怒りや憎しみはかがやかないが、悲しみや苦しみはかがやくと思う」
と書いてあった。プチ・フランクルがここに。わが子ながらすごい(T_T))

後になって

「初めて死んだ身近な人間が父親で、しかも自殺だなんて、ひどすぎるよ。
そう思わない?」

と、とうもろこしは話してくれた。

思うよ。ほんとに思う。
きついだろうな。

でも、それでいいんだと思う。

わかりあう。ということは理解する。ということではないのかもしれない。
相手や自分の不都合を、不都合のままで受け入れることを指すのかもしれない。

必要だからこそ、痛みが存在する。

それは恵みであり

足が切り落とされて、いまはない。という事実にゆっくりと馴れていくために現れる
幻肢の感覚のようなもの。

そういうふうに、わたしたちは抵抗しながら、大切な人の不在になれてゆく。
by terasumonnmoku | 2013-05-09 21:30 | 家族 | Comments(3)

とうもろこし爆発。

設立総会で、あんなにも立派だったとうもろこし君。

爆発しました。

久々の大爆発!

さもないことで調子を崩し、暴れまわる事態に。

部屋の中はひどい惨状で、本棚のガラスは割れ、木枠はゆがみ、震災直後のようになってしまいました。

大きなことがあると、前後で大きく揺れるのです。
自分の気持ちを一生懸命昇華しているんだろうなあ。

以前は爆発があるたびにおろおろして、すぐに問題を解決してくれる魔法の手を捜して駆けずり回り、ひたすら事態の収拾を目指しましたが、

最近ようやく、無理だということがわかりました。

自分で自分の問題を解決し、前に進むしかない。

そして彼には、それだけの力があるのです。

父さんにはおれはいらない人間だったんだ。おれにはもう生きてる意味なんかないんだ。
だから自分は死んだほうがましだ。
もう誰も信じない。ずっとひとりでいられたら、楽なのに。

そういって涙を流す息子に、できることがない。

どんなにか父親のことが好きだったんだろう。
どんなに深く、大切に思っていたんだろう。
何も答えてくれない死んだ親を、どれほど恋しがっているんだろう。

愛しているから、失ったことがこんなにも苦しい。

思い出すのもつらいほど。

そういう彼を見ていて、急に、

よかった。と思いました。

とうもろこしがこんなにも愛情深い子どもでよかったし、
そんなふうに思えるひとが、彼のお父さんで良かった。と。

死に方が家族にとっていかに残酷だったとしても、

それでもうちのお父さんは最高だった。

とうもろこしがようやく落ち着いたところで、少し話をして
部屋を一緒に片付けようか?と聞くと
いい。といって

黙々と掃除機をかけていた。

ちょっと前までなにもできない子供だったのに、
ガラスも片付けられるようになったんだな。

まえに、同じ立場のお母さんから、息子さんが暴れてパトカーが7台来たことがある。
という話を聞いたことがあります。

それで、とうもろこしの反応は、こういうことがあった子どもとしてきわめて健康なのだ。
どちらかというと、健康すぎるくらいだ。ということがわかりました。

でっぱったり、へこんだり、いかしていたり、だめだめだったり、
いびつで、でこぼこな、それでこその、人間なのでしょう。
彼の父や母が、そうであるように(笑)

朝起きて、「すごいね。もう割れたガラスも一人で片付けられるようになったんだね。」
というと

「その話はやめて」
とばつの悪そうな顔をしていました。

そしていつもと同じように制服を着て、
「自分は弱いと知っているから、努力し続けられる」
という連戦連勝のボクサーのインタビューを、
かっこいい。と言いながら見て

学校に出かけて行った。

彼を見送り、掃除機をかけている時、ふと戸棚の中の、
夫からの最後のプレゼントが、目に入りました。

オスカー賞のトロフィーのレプリカです。
ぴかぴかと金色に光る2体の

「BEST MOM] と「BEST SON」

もらった時は全然わけがわからなかったけど、

自分にとっても、わたしたちは大事な家族なんだよって、
きっと夫は言いたかったんだろうな。

いつか「BEST DAD」も探し出して、一緒に飾ろうね。
by terasumonnmoku | 2013-05-02 11:25 | 家族 | Comments(0)
みなさま、こんにちは(^○^) ゴールデンウィークの中日、いかがお過ごしですか?
無事設立総会も終わり、先週の中ごろからようやく食欲も戻ってきました(笑)

やっていることのわりに、わたしは小心者なので
プレッシャーがかかるとご飯が食べられなくなります。
いままで自分をそういう人だと思ったことがなかったので、びっくりしました。
いやいや。なんでも経験してみないとわからないものです。

設立総会の前後が特にひどく、大食いのわたしが小食になってしまったようなそんなとき
異業種交流パーティに誘ってくださる方がいて、

自分は行くつもりはないにせよ、
最悪の日々さんざんお世話になり、
最近事業を拡大しつつある友達のひろみんがそこに行くと、
とってもいいんじゃないかなあ~
と大きなお世話を思いつき、話を振ったら、なぜか本人に意欲がない。

で、急遽一緒に行くことにして、
会社名が必要だとのことで彼女の会社の名前を勝手に考え
(わたしはフリーで働いており、そういう場所で、希望の会は立場的にかなり微妙なので)

その会社の従業員としての名刺を自分で作り、総会の前々日にパーティに参加し、
架空の名刺を盛大に配り、ひろみんを猛プッシュしてしまいました。

みなさんごめんなさい。

あの会社は、まだ存在していないんです。
なのに臆面もなく(株)までつけてしまって、本当に申し訳ありません(T_T)
わたしは怪しすぎますが、
ひろみんは、実際かなりのキャリアを持ち、
きちんとした仕事をする人なので、どうかお許しください(T_T)

あとでこの話を徳ちゃんやくみちゃんやほかのみんなにしたところ、
(株)をつけたのはやりすぎだと、大いに顰蹙を買いました(そこですか?爆!)
電話で前株か後ろ株か聞かれ、咄嗟に「前株です」と言ってしまった。

各種プレッシャーに押され、やること山積みの大混乱の中、
流れ星のようにやってきたすてきな思いつきに夢中になるあまり、
ものを考える能力を失っていたのだと思います。
あったら、この顛末の一切は、なかったと思います(T_T))

そんなよこしまなことをしていたのに、
そこにかねて面識を得たいと各方面に根回しをお願いしていた議員さんが
2名も出席されており、

お二人にはちゃんと希望の会の名刺を出してご挨拶に伺い
会の主旨を説明しご支援をお願いしたところ
おかげさまで活動にご賛同を得ることができました(T_T)

恐ろしいことです。
なぜそんな展開になるのかわかりません。

そんなこんなで、倫理法人会のモーニングセミナーに参加することになり
そのころにはすでに新聞にもテレビにも、出てしまった後なので
行きがかり上、素直に希望の会の活動の宣伝をしてきました。

過労死遺族の会を、法人会でアピールするというのもどうかと思ったのですが
みなさん倫理の勉強をされていらっしゃるだけあって大変好意的に受け止めてくださって
一つの部会では、過労死防止基本法のための署名活動の説明の時間を設けてくださり、
署名協力までいただきました。
まさかこんな展開になるとは思っていなかったので、わたしはいたく感動しました(T_T)
(ありがとう、ちずちゃん!)

いままさに大変な労働環境にいらっしゃる、という方が、たくさん白地の署名用紙を受け取って「他人事じゃないんで、集めてきます」と言ってくださったり、

過労が原因で自身二回血を吐いた、とおっしゃる同世代の社長さんから、
過労死防止基本法やそのための活動に関する忌憚のない意見を伺ったり
ものすごく、濃い時間を過ごすことができました。

うちの夫の場合直接の原因は、
震災復興と集団による未必の故意が重なったものであり、
実際に人為的なきっかけを作った方々には自覚そのものがないと思われるため、
別の世論を形成するという回りくどいことをしていますが、

他の過労死事例の中には、何時間もみんなの前で罵声を浴びせる。
ひとりに達成不可能なほどの業務を強いる。というあからさまな悪意があるものもあり、
当然その場合はお互いのために、裁判で決着をつける必要があると思います。
遺族会としてそれは全力で支えたい。
(とはいっても、できることは裁判の応援くらいですが・泣)

でも根本的にこのような現象を無くしていこうと考えた場合、
実際は、社会を回しているみなさんの意識が変わって行かないと、どうにもならないと思うのです。

「未来は、自分の夢を信じる人のものである」とルーズベルト大統領が言っていた通り
本来社会は、夫のように夢を持つ人のものであるはずだし

日本にはひと以外の資源はなく、これからの世界で厳しい競争を生き抜いてゆくのは
一人一人の夢を育み、人を大切にする企業や組織やコミュニティなんだと思う。

そこに向かうため、誰が悪い。ということをいっていては話を始めるテーブルにつくこともできないので、
会としては過労死をあくまで倫理上、哲学上の問題ととらえ、
今ある制度の中で、いろんな局面で、
立場を超えてこの問題を無くしていけるような交流ができたらいいなあ。と思っています。

しかしそれにしてもこの展開は、いったいどこにつながってゆくのでしょう。
改めて考えると気が遠くなりそうです(T_T)
by terasumonnmoku | 2013-05-01 11:17 | Comments(4)

宇宙真理哲学講師、らくがきすと、即興ピアニストぷらす社会活動家(過労自死遺族当事者)働くことから世界を変えるをモットーに、さまざまな活動をしています。合言葉はREBORN.大事なのは、生きることだ!


by terasumonnmoku
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