8月11日、ブラック企業大賞の発表がありました。

ワタミがダントツの一位。
東北大学が二位で、特別賞を受賞。

そのことについてどう思うかをよく聞かれますが、
個人的にはこの結果に、極めて満足しています。
まるで、自分が受賞したような気持ち。

夫が亡くなった直後、
彼を慕い動揺する学生さんたちに向かって

「夫の件は、わたしがきっちりかたをつけるので、みなさんは
できればこのまま研究をつづけ、ちゃんと大学や院を卒業してほしい。
もし夫を思ってくださるのであれば、みなさん自身の人生を充実させる方向で、
彼の思いにこたえてほしい。それを本人も一番願っていると思う」

と、大口を叩いてしまった。

顧みると、この時点では「かたをつける」ということが、
具体的に何を指すのかも、
そのためには何が必要で、どう動けばいいかも、皆目わかっていなかったので
(今でも、わかりませんが)
我ながらよく言うよ、と慨嘆するのですが
その時は大真面目だったし、なにより必死でした。

ここにきてようやく
労災認定の獲得と、東北大学のブラック企業大賞特別賞受賞で
自分の言ったことの責任の一端を、やっと果たせたような気がしています。
(まあ、錯覚かもしれませんが)

受賞根拠は、5年で二人の過労自死者をだした。というもので
夫だけが理由になったわけではないし、
一位のワタミの渡辺さんが、そのまま比例代表で議員になってしまったことを鑑みて
この賞が、期待するほどの重みや影響力を持たないものだったとしても、

夫の名誉を守り、学内の特定の個人を傷つけることなく
なるべく大きな規模で、事実を知らしめる。

という、当初からの目標には到達できました。

言いたかったのは事実で、大学がいかに悪いかではないので
これで、このことについてのコメントを、終わります。

過労自死した東北大学の准教授の妻としてできることはここまで。
今後大学がどうなっていくかは、組織の中で、現在大学を構成する
一人一人のみなさんのお仕事です。

みなさんのお一人一人には、世界を変えるほどの力と、
かけがえのない価値があるのだと信じています。

わたしにとって、夫が本来、そう言う存在であったように。

これからも夫と共に、東北大学のますますの発展と、
内にあるみなさまおひとりおひとりのご健康と幸福を、心からお祈りしております。

ところで、当初学生さんに演説し、
前述の、ざっくりした目標を立てた後は、

夫を悼み、陰になり日向になって支えてくださった、
たくさんの方のサポートに感謝しつつ、
目の前にあることを、ただ粛々とやっていただけでした。

特にどうしようと考えたわけでもないのに、
わらしべ長者のように出会いが出会いを生んで、
気が付くとわたしは無事に任務を遂行しており、
結果、一年半前とは全然別の場所にいることに、いまさらながら驚きます。

過労死基本法制定実行委員会、委員長の森岡先生が
今回岩波現代文庫から出版された「過労死は何を告発しているか」という著書で、
夫のことをとりあげてくださったり、

8月16日の朝日新聞では、ホワイトカラーエグゼンプション
(裁量労働制をさらに押し進めたもの。過労死しても労災申請の対象にならなくなる)
導入についての、労働法権威の菅野先生の否定的な意見とともに、
夫の事例を紹介していただいたことで、この危機的な状況に
彼とともに、僅かなりとも力を尽くすことができたような気がして、
大変うれしく思いました。

このように扱っていただけるのも、夫が立派な人だったからなのでしょうが
それにしても人生は不思議です。

なぜなら、辿ってきた人物や、リンクがどれ一つ抜けても
こういうことにはなっていないはずだからです。

当たり前のようなミラクルのような。
誰の人生も、ほんとうはそういうものなのかもしれませんね。

今後は、次に続く子供たちのために、
過労死そのもののない社会に向かって、動いて行こう。

目指すものがいかに現実からかけ離れているようであったとしても
あきらめる必要は、全然ない。ということが、ようやくわかってきました。
by terasumonnmoku | 2013-08-31 23:30 | Comments(0)

8月の狂想曲。

こんにちは!

ディープなお盆が終わり、怒涛の2週間が過ぎ
ようやく一息ついている今日。

ずっと放置していたにもかかわらず、いつもこのブログに遊びに来てくれてありがとう(^○^)
関心を持っていただいてうれしいです。

新しいこともはじめたし、その他いろいろなことがあり
例によって、わたしの人間ーがついていけない。状況が続いている。

肉体があるので、決めさえすればそこに身を置くことはできるけど
たちどころにすっきり、全部の焦点が合うわけではなく
息切れ状態(笑)

いつも思うけど、自分で認識可能な自分の範囲というのはとても狭い。
わかっていなくてもわかっていて、そこに向かっていたり
向かっているつもりで、気づかぬところで必死にブレーキをかけていたり。

わたし自身は、自分の感情に関心がなく
(感じないわけではない。というかどちらかというとすごく繊細なんですが。
←誰も言ってくれないから自分で言うけど)
その時、とろうとしている行為が、まったく自分の感情に反することであったとしても、

遠大な目標に到達するために、必要に応じた行動を起こすことができるけど
ほとんどのひとに、それは難しいことみたい。

労災申請の際の、比較的理性的なふるまいを褒めて貰う機会が多いが、
それはわたしが偉いからでも何でもなく、体質的な問題なのだと思う。

共感能力が異常に高く、
自分の感情と人の感情を区別することができない人生を長く送ってきたので
ひととして生きていくために、
特定の感情にフォーカスしない訓練をするしかなかったのだ。

常に人の苦しみを自分のもののように感じて生きてきたわたしが、
自身の強烈な痛みに直面して思ったことは、
やっぱり人の苦しみに共鳴するより、
自分が自分の理由で苦しむほうがずっといい。ということだった。

苦しみたい。ということではなく、
自分の苦しみは、行動によって昇華することができるから。

苦しみは、一人で抱え込んでいるときは単独の恐怖にしかすぎないが、
そこから学び、社会化を行うことによって、別の意味を付与することができる。

単独の恐怖を、みんなでわかちあい、
より良い明日を創るための、貴重な財産に変えることができるのだ。

でも、人の苦しみは、感じても自分が手放さない限りそこにあるだけで、
わたしにはどうすることができない。
息子に関しても、夫に関しても、家族間(実家関係ではなく)の確執に関しても
きつかったのは、そういうことだったんだろうなあ。と最近思う。

苦しむ家族を見ていたくなくて、思いつく限りのことをしたが、
それが自分を押し付ける非常にエゴイスティックな行為でしかなかったことに気づき、愕然とする。

人を認め、受け入れる。ということは、
その人の感情や思いを、その通りだと思うことでも
変えようとすることでもなく
そのひとが、いまそうである。ことを分かったうえで、
その現状を自分の中で手放す。
その上でより本質的なその人を見てゆく。ということなのだ。

何度も何度も考えたそれを、らせん階段を上るように
学んできたんだなあ。としみじみ感じる。

手放すことと、受け入れること。
それが、ゆるすことと同じだなんて、思わなかった。

ひとが苦しむこと自体がゆるせなかったんだろうな。
悪いことだと思っていたんだろう。

善悪なんて、ないのに。

やれやれ。

この夏、息子とうもろこしがはじめて、父親の自死に言及した弁論文を書き、
それを学校で発表した。
とうもろこしが自分の言葉でつづったすばらしい文章だったので、ぜひここでシェアしたい。
と思ったが、残念ながら本人の許可がでないので、できない。

「嫌ではないんだけど、いいともいえない」のだそう。

弁論文を書き、発表する前後で彼は荒れ、山を越えて今に至るが
そこにどれだけの思いがあったかを考えるだけで、泣けてくる。

その山をわたしたち親子が超えている最中にも、
人との関わりのなかで、
(自分たちだけのものではない)涙と汗に満ち満ちたいろんなできごとがあって、
この8月はまるで、狂想曲のようだった。

これがきっと、みんなで一緒に学んでいるということなんだろうな。
そしてわたしは、そういうのがすごく好きなんだと思う(笑)

今思うのは、息子のこどもたちが社会人になるころには、
過労死や、自殺や、戦争や、原発という概念そのものが、
ない社会であってほしいということ。

ひとがお互いを思いやり、幸福に生きることが当然の社会こそが、
本来のわたしたちにふさわしい、人間の集団のあり方なのではないだろうか。

WAR IS OVER ではなく、WAR  という名詞のない社会だ。

そのために、あたらしい価値をそれぞれが創造する、
ようなことをみんなでしていきたいと思うが、
よく考えたら、もう、はじまっている気がするな!









 
by terasumonnmoku | 2013-08-30 10:10 | Comments(0)

みなさまお元気ですか?

暑いですねえ~。

ペルセウス流星群のやってくる前日、スピカ蝕というふれこみの12日の早朝、
不思議な夢を見ました。
誰かと、あるいはどこかと、地中海ブルーの空に浮かぶ、
輝く契約書を交わす夢です。

これを交わしちゃったら、大変なことになるなあ。
ぜんぶひっくりかえるなあ~。

などと、わけのわからないことを思いながら目を覚ましました。
なにかが、切り替わったような気がする。

誰と交わしたんだろう??
自分自身?

深く広く、どこまでも広がる自分。
宇宙のような。

現象的にはいろいろなことがありますが、まあいいや。

最近なにを見ても涙が出ます。
人間って、すごい!

なんてやる気があるんだろう。
一人一人の人生には、なんて深みがあるんだろう。

近ごろのエネルギー的な気付きとしておもしろかったのは、
少し苦手だった大津先生の「フォトンと魂」というお話のCDの波動と、
そっくりなものを見かけたことです。、
それは、わたしに対し、驚くほど攻撃的な感情を発散している人の、
エネルギーの塊でした。

大きさ的には1,2キロ程度の角ばった漬物石状の塊が、
本人の喉から顔のあたりからぼんぼん飛び出しているのを、
少し離れた場所から、圧倒されながら見たのです。

そのエネルギーは、どう考えても「敵意」なのに、
意外なことにギラギラと、輝いているのです。
どう見ても、荒くはあっても、光でできている。

しかもどこかで見覚えのある感じだと思いよく考えたら、
前述の大津先生のCDの波動でした!

ちなみに、普通の人の感情は、もっとずっとぼんやりしていて、
そこまで明確には見えません。

この人の場合、そもそも念が強い体質だったと思われ
そのうえに分離感によって(こうあるべき、とか善悪とか)
破壊のエネルギーを作り出すことに意識を集中したために、
こういうことになったのだと思います。

同じ破壊のエネルギーであるガンと見え方が違うのは、
癌は火花のように粒子が崩壊して見えるのに比べ、
怒り、とか敵意というのは、尖ったエネルギーが塊となり、
しかも一定の方向性をもって見える。ということです。

光のブロッコリーが猛スピードでその人の中から生えてくる、みたいな感じ。
自分が猛烈に怒っているときは、雷鳴がオーラ中を轟き渡る、ような感じになるので
(対象を限定するとまっすぐにそこにいってしまうので、怒るのも細心の注意が要ります)
敵意の持ち方もそれぞれなのかもしれません。

あれ、同質の攻撃性、あるいは被害者意識等の受容体を持った人が受け取ったら、
大変なことになるんだろうなあ。
それをまあ、わたしたちは「学び」というわけですが。

大津CDのエネルギーとは、もちろん精妙さは全然違っていて、
見た目からして引いてしまうような代物なのですが
(すごすぎて正確には受信できない)、
どう考えてもスペクトラム(というのか波動の分布範囲というか)が一緒なのです。

びっくり。

ネガティブなエネルギーというのは、ほんとに作ってあるだけなんだな。
圧縮された、光なんだ。

いやあ。ほんとに、人生無駄がない。

その人の「敵意」も、その人自身の学びー自分の中の美しさや大切なものを、
守るための過剰防衛ーとして出ているに相違なく、

これだけパワフルな美しさや大切なものが、ストレートに現れると
いったいどれだけすごいことになるんだろう。

いかなる屈折によって、そんなにもすてきなものが、
そこまで<がしがししたもの>になっちゃったんだろう。

という人というものの奥深さに、感銘を受けます。

(ただ、創造をよろこぶーという生命の本来の目的に反した形でエネルギーを使うと、
結局消耗するのは本人なので、やめたほうがいいと思う。
思考は物質と同じように自分を傷つけます。)

わたしは、そのブロッコリー状の敵意を見て驚いたものの
その時自分がやっていたことに夢中になってしまい、
熱中のあまり、途中からそのエネルギーの存在そのものを、忘れてしまいました。

不思議なことに、それから、「フォトンと魂」も好きになりました(笑)

教訓としてはあれですね。
必要なものは、苦手なものとして現れやすい。ってことかな!

そのひとの「敵意」も、大津先生の「フォトンと魂」も、
純粋に分布帯ということでいうとわたしにとっては必要なエネルギーであったに違いなく、
どのレベルで受け取るかはわたし次第、ということだったのかも。

しかしまあ、どうせなら、余計な感情をくっつけない純粋な形で受け取りたいね。
by terasumonnmoku | 2013-08-14 10:51 | スピリチュアル | Comments(0)

選択と意志。

暑いですねえ!!

再び怒涛のような一週間が終わって、東京から元気に帰ってきました!
息子とうもろこし君は、今回はじめての青春18きっぷでのひとり移動。
同じ電車に乗っても、ものすごく離れたところに、乗るのです。
まさに立派な思春期!!!!

というわけで一人で乗った帰りの新幹線の中で、
自称70年安保を戦った建築関係の男性と隣りになり、
不思議な話をしました。

彼が缶ビールをまき散らしながら、ヘルケゴールがなんとか。としきりに言うので
「それはもしかして、キルケゴールとヘーゲルが一緒になっちゃったものですか?」

というと、そうだ。というのです。
で、話は学生運動のことになり、
学生運動をやりながら実存主義にかぶれていたというので
意味が分かりません。と正直に言いました。

自分は本格的な活動家ではなく、シンパだからいいんだ。とつづきます。
(なにぶん酔っ払いなので)

わたしは共産党宣言しか読んだことはありませんが、
マルクスは、階級制を廃止するだけで、
社会が自動的にいいところになると考えていたような気がします。
でも、階級制度のなかの不条理は人間性そのものの中にあり、
人が変わらない限り、
制度を変えても支配―被支配に関する問題は変わらないと思うので、
共産主義は、その目指すところほどロマンチックではなかったと思いました。

と、自分の意見を言うと、
「彼は経済に対しては見識があったけれども、
人間の多様性を理解していなかったんだよ」
という、なかなかすてきな答えが返ってきました。

共産主義が崩壊した中、
わたしたちはこれから何にロマンを求めればいいんでしょう?
と相談した結果、

「ひとだよね」

ということで認識が一致して、たいへんHAPPYに分かれました。

酔っ払いだったから、きっと忘れちゃってるんでしょうけど、
有意義な時間だったなあ(笑)
ひとって、おもしろい。。。。

東京で何をしていたかというと、過労死遺族の会のみなさんにくっついて、
今度は息子と一緒にロビー活動を行ったり、
わかものの労働相談を中心に活動をしているNPO法人POSSEの
リアルな相談のもようを見学させていただいたり。

ああ、行く前には以前にも日記に書いた社会福祉士の皆さん向けの
自死遺族支援を考える会に参加して、自分の体験をシェアしたり、
過労死に関する記事のために新聞社の取材を受けたりしていたので
この一週間はものすごく濃かったです。

それがみんなのためになると信じ、やりたくてやっているにも拘らず、
自分の体験をシェアするのは傷口に塩を塗るような作業には違いなく、
精神的にはまあだいじょうぶなのに身体のほうは自動的にかたまって
あっという間に不眠症が復活したのにはまいりました。

これがまさに多次元、というやつなんだろうなあ。
すべてのいのちが、うつくしいかがやきを放っているような世界があり
かたやぱっくりと口をあけたままの傷がある。

ひとりの人間の中にいろんな部分があって、そのおりおりでいろんなわたしが登場する。

すべてが真実で、すべてがまぼろしなんだろうな。
で、どっちもわざわざ否定する必要はないんだ。
というのが最近の結論です。

在りたいようにあればいい。
わたしたちは自分のあり方を自分で選べばよいのです。
それは条件によって規定されるものではなく
あくまでも本人の選択と意志によって、規定されうるものと信じます。

取材に関しては、

「一生懸命に働くという日本人の美徳が、
過労死を作り出す土壌にもなっているということが、
遺族としてはどうにもやるせないのですが、

逆に言うとそこを生かすようなシステムを作り出すことができれば
それがこの国の、大きな力になる。ということもできると思う。
そういう意味で過労死防止基本法の制定はすごく重要だと思っています。」

という意見を聞いていただくことができたことがうれしかったです(^○^) 
(実際の記事がどうでも!)

いずれにせよ、ディープなところを通り抜けて、だいぶまた毒がたまった気がするので
お盆明けあたり(笑)またファスティング(断食)しよー!
by terasumonnmoku | 2013-08-09 22:25 | Comments(0)

今度人前でする話の内容をざっくり決めようと思い
夫や、息子のことを考えはじめたところ、
考えれば考えるほど、だんだん腹が立ってきた。

特定の人や、大学という機構そのものに対しては、整理がついてきている。
だから、これは社会に対する怒り。

社会に対する怒りが残っているんだ。と思いついて
真剣に、マックスで、怒ってみた。

いくらなんでもひどすぎる!
社会って、もっといいところでもいいはずだ!

感情曲線がぐいぐいと高まっていくその頂点で、ふと冷静になり秘かな疑問が。

社会って、なに?
よく考えると全然わからない。

これが社会です。という、確たるものなんて、「ない」。
ということに

気づいてしまった。

えーーーーーーーーーーーーー?????????
ないのー??????

社会、なんて存在しない。
ただ人がいるだけ。システムがあるだけ。

そんなどこにも「ないもの」に、真剣に腹を立てていたなんて。

ふつふつと、胸の奥でたぎっていた怒りが対象を失って、宙ぶらりんになり、
どうしていいかわからなくなってしまった。
それで、身の置き所のない気持ちになり
病み上がりで自宅療養中の及川徳子さんにメールして、顔を見に行ってしまった。

みなさん。抜け駆けしてごめんなさい。

徳ちゃん、元気だったよ!
頬が薔薇色でした。
ニュー徳ちゃんは、あたらしかった。
(何だこの文章は!)

ああ。屋根に上っている最中に、いきなり梯子を外された気持ち。
何をどう考えればいいのかわからない。

徳ちゃんにその話をすると、おもしろそうに笑っていた。
「振り上げたこぶしを、下せなくなっちゃったんだね」(笑)
その笑顔を見て(何も解決したわけではないが)なんとなく満足して家に帰った。

徳ちゃんが、生きているだけでうれしい。
彼女の今回のことがあって、他のみんなに関しても、そう思うようになった。

生きてるって、すごいことだと思う。
どんな状態でも、やっぱりすごい。

最近、わたしにとって、ひとのオーラいうのは、そのひとのその時点の自分自身に対する採点済みのテストのようなものなのかもしれないな。と思うようになった。

(単なる採点票であって、事実でも真実でもない。それは本人を語るなにものでもない。なぜなら、本人のなかで何かが変化した瞬間、劇的に見え方が変わるから。)

そのひとがどういうひとか。というよりも、その人が自分自身をどう思っているか。
が、かたちとして現れたもの。

どのくらい、自分を肯定できるか。
何が大事で、何が許せないか。がダイレクトに出る。

だからスピ系の偉い人が、暗くしょぼいオーラだったりするのかも。
清らかさを求めるあまり、自分自身を不浄のものに思ってしまっていたら、
しょぼしょぼしちゃうのも当たり前。

わたしにとって、ひとは、みんな本人採点済みの答案用紙をぶら下げて歩いているようなものだが、
最近生まれた新しい時代の子供たちにとっても、そうなのかもしれない。

学校がきらいになっても、不思議じゃないなあ。
欺瞞。とか、嘘とかばっかりのうえに、こどもには、
その辺の味わいや面白さを読みとくスキルがない。ほんとに可哀想だ。

生まれつきこうなので、キャラ設定通り自分に透視能力があるかどうかはわからないが、
ひとと判断基準がまったく違うことは事実だ。

わたしにとって、そのひとが社長であろうと、大学教授であろうと、お金をたくさん稼いでいようと本を出していようと、影響力が強かろうが、人の過去生がわかろうと、誰か有名な人の生まれ変わりであろうと、そんなことはどうでもいい。
どのくらい、真摯に自己に向き合っているか。
本質を生きているか。
全体の幸福のために考えて行動しているか。どうかが大事。

たとえば今現在精神疾患で悩み、
あたりまえの日常を失っていたとしても、

そのひとが過去において信じた自分を真剣に生きようとしてそういう状態になったことは事実で、
それはとても勇気のあることだったと思っている。
そこから何が学べるかを、みんなそれぞれの人生の中で実験中なのだと思っている。

だから、状況がハードな時はくれぐれも重要な判断は下さないで。

ちゃんと息ができるようになってからでも遅くはないはず。
一番大変なところはもう終わった。

大事なのは誰にとっても過去ではなく今、そしてこれから創る未来だ。
by terasumonnmoku | 2013-08-01 16:25 | スピリチュアル | Comments(2)

生きる意味が見つからないなら、自分で創って育てちゃおう!というブログです。やっていることはさまざまですが、常に生きることに向かっています。

by terasumonnmoku