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あまりにも疲れたので、今日は、ばりスピな日記です(^○^) 

徳ちゃん、ひろみんと一緒に、映画「かみさまとのやくそく」(子供たちの胎内記憶についての映画)を見に行った。

ふつうだった(笑)

わたしはどこをどう取っても大人だが、この映画の登場人物の中では、子どもの感覚に近いんだと思う。

母がわたしを身ごもった時、光のたまになって、うれしさ爆発で、
空のほうから一直線でこの世界にやってきた記憶があり、
子どもたちの絵を見て、その時の「感じ」をまざまざと思いだした。

ここに来る前に、パートナーと約束し、ある程度の人生設計を立てていたはずで
それは今の感覚からいうと、ずいぶん壮絶なものなのに、
自分自身がそんなにも喜び勇んでやってきたことを、心から不思議に思う。
この世に本来善悪はない。という師匠の説は、ほんとうだってことなんだろうな。

わたしの来た過程は、子どもの話にそっくりだが
残念ながら(絵に出てきた)大仏状の「かみさま」の記憶はない。

でも、なぜか昔から「鎌倉の大仏」が大好きで
20代の頃、真夜中に大仏の手のひらによじ登って、月を見上げた時の至福体験が忘れられないので
案外どこかに、その時の気持ちが残っているのかもしれない。
(その後悪戯をする人が現れて、警備が厳重になり、夜間、大仏敷地には入れなくなった。なので、善い子はまねしないでね。)

子ども(小学生以下)とのコミュニケーションで、苦労することはほとんどない。
一瞬で、膨大な量の情報を共有する感覚があり
別に話をしなくても、一緒に遊んで機嫌を取らなくても
基本的に子どもには好かれるし、信用される。
(大人は、大変(T_T))

干渉し過ぎると、子どもの精神は委縮してしまう。
これは苦しいだろうな。と思う子どもがたくさんいる。
わたしの周りにはこれとは対照的に、東大にストレートで入って、その後もまずまず順調です。
的なひともいっぱいいるが
そのお母さんは、不思議なほど子どもに介入しないタイプが多い。
(でもクールな愛情はたっぷり)
この映画で言っていたように
子どもは誰でも天才で、大人の役割はその可能性をつぶさないこと。というのは本当だと思う。

どんなに苦しい状況におかれた子でも
わたしが、喜び勇んで母めがけてこの世に生まれてきたように、
自分で親を選んでやってきたに違いなく、
それは同情すべきことではなく、尊重すべきことなのだろう。
とうもろこしも、きっとそうなんだと思う。

先日、仕事の関係で(スピ系のセラピストなのだ)凄絶な虐待の体験を聞いた。
そのひとは虐待を受けたことで、相手ではなく自分を責め、自らをひどいもののように語ったが
わたしが見る限り、そのひとのエネルギーはほんとうに純粋な透き通った光に輝いていて
汚れたり、どろどろしているところなどどこにもなかった。

その苦しみは、本来その人がそうであるように、
純粋で美しいものでありたい。
という当たり前な気持ちと、
家族に対する「愛」からできていて、
どこをどうとっても醜いところなど一つもないのに、
わたしにはそれを説明するすべがないのが、悲しかった。
(言葉では言ったが、伝わらないのだ)

みんな自分に蓋をして、自分のすばらしさをわざと見えないようにして
少しずつ少しずつ、後から「発掘」するんだろうな。
「生きる」というのは、たぶんそのための、旅のようなものなのだろう。
わたしにできることは、そのひとが一刻も早く自分の本当の姿、美しさに気付けるように
ただ本来その人がそうである、幸せで綺麗な姿を見ていくことだけ。

と思った時、過去日記の

http://artandlove.exblog.jp/10547515/

で十字架にかけられたキリストを思い、慟哭する護衛の兵士エルコに
キリストがかけた言葉を思い出した。
「嘆くことはない。わたしはすでに、癒されているのだ。」

両手足から血を流し、更に痛めつけられたキリストの
どこが「癒されている」のか、不思議だった。

そのひとの凄絶な体験と、なお損なわれない美しいエネルギーを見て
「癒されている」というのはもしかして
誰がどうがんばっても、(たとえ自分でそうしたとしても)
ほんとうの「自分自身ーいわゆる真我」を踏みにじり
破壊することは、誰にもできないんだよ。

ということが言いたかったのかな。と思った。

罪があるから許されるーのではない。

そうではなくて、この地上は、本来、光のこどもであるわたしたちが
特殊な体験を積み、そこから学びをくみ上げるために
宇宙の中でも特別に苦しむことを、ゆるされている場所であり、

この苦行も、実は希望により体験しているだけで、
違うことを望めばたちどころにそうなるのだ。
(キリストくらいになれば、それはそうだろう。なにせ空からパンを降らせ、死体から復活しちゃった人なのだ。)

ということだったのかもしれない。

本来、苦しみなんて、ないのかもしれない。

って、なんかいい。 





by terasumonnmoku | 2014-04-30 22:33 | スピリチュアル | Comments(5)

わたしにはできる!

今日は希望の会。
弁護士や社労士の先生、遺族の皆さん、サポーターのかなちゃん、などと、
ブース設営、ドリプラで宣伝するイベントについての打ち合わせ。
調子に乗って、みなさんにチケットを売りつけました(笑)

最近、希望の会がおもしろい。

今回は、すこしまえに長く続く、
深刻な過重労働を心配したご家族からのご相談を受け
ご本人の家族全員、プラス希望の会の遺族、弁護士、社労士、カウンセラーの先生総がかりで
「その働き方は命にかかわります」
と切々と説得したにもかかわらず、
さしたる感慨もなさそうだった30代の男性が

退職して程よい会社への転職に成功し
いのち永らえることができそうだ。ということを聞いて、
みんなで喜び合いました\(^o^)/

ほんとうによかった(T_T)
大学の夫のまわりのみなさんの、その後の近況についても、お話を伺いました。
少しずつよいほうに変わってくださっているようで
わたしはほんとうにほんとうに、うれしいです(T_T)

その後、会の中で、ドリプラの台本も読んでいただきました。
最初「過労死をなくそう」というテーマだった台本が、
「命の輝き」的な感じに変わってきたので
ちょっと心配になっていたのですが
だいじょうぶみたい♪

でも、わたしが失敗(なんでみんなそうなるの?笑)したら
顧問弁護士の土井先生が、マスクをかぶって会場に乱入し、
すべてをうやむやにしてくださるとの発言があり
笑ってしまった。
浅田真央とコーチのようだ。(笑・そしてあの先生は本当にやりそうだから怖いよ、とのとうもろこしの談にも笑ってしまった。いえいえ、失敗しませんから、だいじょうぶ。)

それにしても、大変な数の皆様が
このプレゼンのために動いてくださっていることがありがたく
いちいちじーんとしてしまいます。
なんだかなんだか、すごすぎる(T_T)

今日はたいしくんとるなちゃんが、
20代の夫と私の役で、手をつないでいるシーンの撮影で
撮影班のゆみちゃんに、その模様を見せてもらいました。
(チームまえかわは、びっくりするほど特別な、まるでどこかのプロ集団のようですが、
ゆみちゃんと羊ちゃんのふたりは、倒れるほどいい写真を撮ってきてくれます。)
じーーーーーーーーーーーーーーーーーん。

たいしくんとるなちゃんには、
夫とわたしがたどってきた道の、ずーっとずーっと先を歩んで行ってほしい。
仲良く、楽しく長い人生を、たがいに支えあいながら、
そしてたくさんのひとを巻き込みながら、
HAPPYに生きて行くふたりなのです。
まるで過去が未来を創造している瞬間を
目撃しているみたいだ。
じーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。
(T_T)

がんばろー。

過去に向き合うことの恐怖で、体力の消耗があまりにもはげしく
(人の身体って、ネガティブなことを考えてはいけないようにできているらしい(T_T))
このまま不安を楽しんでいると本当に死んでしまいそうなので、
根拠はないけど、「わたしにはできる!」と信じることにしました。

というわけで、毎日自分に、アファメーションをかけています。
「わたしにはできる!」
師匠の大津先生に指摘された
「どんどんエゴが小さくなっている」
も、忘れずに。
生きて、楽しくこの山を越えるには、そうするしかない。





by terasumonnmoku | 2014-04-19 23:26 | Comments(0)

号泣月間。

ドリプラの準備で、ぽつぽつといろんなことに追われている。
自分に向き合う作業が、正直言って結構きつい。
先日は、古いアルバムからプレゼン用の写真をピックアップするというのをやったが
写真を出す前に泣き、出して眺めては泣き
選んでスキャナーで取り込んでは泣き
という繰り返しになり、まったく疲れた。

そんなことをやっていたら、とうもろこしにも影響が出て
彼の風邪がなかなか治らない。
「裏声が、出ないんだよー」
と悲しそうに言うので
心の底から気の毒になる。

ごめんよ。とうもろこし。
いつものように声が出ず、歌が歌えないので
元気がないのかと思っていたら
お風呂の中で楽しそうに口笛を吹いていた。

ドリプラを見に来て。
というと、「びみょー。」と言う。
「母さんが失敗したらどうしようと思ったら
もう、見ていられないんだよ。」
というんだけど、
普通、子どもが親にそういう心配をするだろうか?
びみょー。

翌日、焦って打ち合わせの集合場所に向かうわたしを目撃した
とうもろこしの家庭教師のたいしくんに、
「あ、黒い人が歩いている。と思いました。」
(体の周りに黒いもやもやが漂っている。と言う意味)
と、言われた。

黒いのに、ものすごい存在感だったそうだ。
(別の友達には、縮んだ。輪郭がぼけている。などと言われ、おもしろかった。
みんな見ている物が違うのだ・笑)

黒かろうが縮もうが、やるからには楽しくやりたい。
でも、今まであまりにも余裕がなく、
よく考えると葬儀の時以来、一瞬の間以上「純粋に悲しくて泣く。」ということをした記憶がない。
それはどう考えても異常なことなので、
今回猛烈に泣けるのは、実にありがたい機会なのだと思う。

打ち合わせのあった翌日の明け方、また夢を見た。
中国の古いスラム街のようなところで、財布を盗まれる夫を見かけ
その相手から財布を取り返し、夫を探して追いかけるのだ。

ようやく見つけた彼は、罪人のように腰と手に縄をつけられて
長い人の列につながれてどこかへ引き立てられていく所で、
彼について行こうとするも、群衆に阻まれ、見失ってしまう。

走り続けているうちに、
そこだけ近代的なライトに照らされ、
スモーク状の煙の漂う
UFOの乗降口のようなところについた。
夫の名前を叫ぶと
見張りの人から逃げて来たらしい夫が、
必死でわたしのほうに戻ってこようとした。

もうすこし、というところで看守の人たちに捕まって
彼が扉の向こうに連れ去られたところで、目が覚めた。

時間が逆流しているみたい。
死の直後の出来事みたい。

でも、うれしかった。
彼は戻ろうとしたのだ。

いままでの夢の中で、彼に会う時のわたしはいつも怒っていたが
今回は怒っていなかった。

なにかが、進んだのかも。


というわけで、余りにも真面目なことばかり考えていて疲れたので
「暇な女子大生が馬鹿なことをするブログ」

を読んでいたら、止まらなくなってしまった。






by terasumonnmoku | 2014-04-16 23:16 | Comments(0)

クリストの宿題。

FBで

O que passou, passou, mas o que passou luzindo, resplandecerá para sempre.
Goethe

何が行われ、しかし、光っていたし、は永遠になります。ゲーテ (翻訳: Bing)

という投稿を見かけ、突然、20年越しの宿題が解決した。
(わたしは疑問に思ったことは何十年でも考え続けていられるのだ。怖すぎる~)

これは、ざっくりいうと、
「何が行われたか、とうことではなく、そこに込められた光が、永遠になります」
というような意味だと思われる。
いろいろな場面で使える、鍵のような言葉。

前にも何処かに書いたと思うが、わたしは、
c0195362_23494779.jpg
「すべての芸術は、うちに永遠を秘めている」
というポール・ヴァレリーの言葉を信じていて、
かねてクリストと言うアメリカの現代アーティストの作品が
ものすごく好きだったにも関わらず、
瞬間芸術という作品の在り方に疑問を持っていた。

それで、彼の講演に行ったとき、本人に
「瞬間的にしか存在できない作品のどこに<永遠>があるとお考えですか?」
と(考えようによっては大変失礼な)質問をしたところ、
「見た人の記憶の体積の中に、永遠が存在する」
という答えが返ってきた。

その答えがずっと気になっていた。
何かが足りない。
納得できない。
 
今日、このゲーテの言葉を読んで、はじめて、積年の疑問が解決した。

島を囲ったり、砂漠に傘を大量にさしてみたり、渓谷に布を垂らしたりすることで
たぶんクリストは地球やそこに住む生命を、祝福し、賛美し、愛を告げる。
と言うことをしていたのかもしれない。
そこに込められたものは、少なくとも彼にとっては紛れもない「光」だった。

だからこそ、難しい幾多の政治交渉にもめげず、こうした大規模の作品を、
大量のお金を集めて次々に実現することができたのだし、
その「光」を顕わす並々ならぬ熱意に共鳴して、
応えてくれた人がたくさんいた、に違いない。
(景気も良かったし、宣伝にもなったのかもしれないが、それにしても大きすぎる。)

作品集を見ていると、ワインボトルのような小さなものから包み始めて、
だんだん規模が大きくなってきたようなので
彼の中の愛と光も、時間経過とともに育ってきたのかもしれない。
よく考えるとこれはものすごく大それた、I LOVE YOUだと思う。
YOU に入るものがとんでもなく大きいからщ(゜ロ゜щ)!!

そして時には国境をまたいで、難しい交渉をまとめたのは、
先ごろ亡くなった奥さんのクロードの功績で
だから現実化したこれらの作品群は、クリスト一人によるものではなく
彼ら夫婦の共同作品ということができるかもしれない。
ふたりの想いの上に、行政側の許可を出した人、お金を出した人、
製作作業に関わった人、これを目撃した人などなどのたくさんの共鳴が重なって
この「囲まれた島」↑のような物語ができていたのだ。
そういうことを考えると、クリストの世界は、夫婦二人の人間的な愛からスタートした、
地球規模の作品群-光の共鳴ということができ
たぶんわたしは、そういうところにもものすごく惹かれていたのだと思う。

なるほどー。そうだったのか。
だから彼の作品が、こんなにも気になっていたんだ。

今日は、満月。
疑問が解決するのに
特別なタイミング(たぶん・笑)ものすごくすっきり!

写真は、マイアミの11の島をショッキングピンクの布で囲った彼の代表的な作品。
「囲まれた島」のプロジェクトです(^○^) 





by terasumonnmoku | 2014-04-15 23:49 | アート | Comments(0)
ダライ・ラマには昔から憧れがある。昔テレビで拝見して以来ファンになり、
震災直後の来仙の折には、会場のお寺に押しかけてしまったほど。

もちろん中には入れなかったし、姿も見られなかったけど
物々しい警備に遠慮しながら、近づいた門の前には
民族衣装のチベット人らしき人びとが、張り付くように祈り続けていた。
どのような経過をたどって、ここまで流れてきたのか。
震災にあってどう思ったのか。
せめてこの人たちだけでも中に入れてあげられたらいいのに。と思ったことをおぼえている。

チベット問題を、生きた人間の関わる、
進行中のリアルな出来事と認識したのは25年前のこと。
旅行中のインドで「チベットはインドに属している」と書かれたプラカードを掲げた、
チベット人らしき青年たちに遭遇したのがきっかけだった。

故郷を追われ、インドのダラムサラに亡命政府を樹立して、
29年が経過したその時点で、
なお「インドに属している」
と、彼らがいわなければならない事情は、なんだったのだろう。
(聞けばよかったのだがあまりにも殺気立っていて、近づくことができなかった)

ダラムサラが、インドによって、中国との駆け引きの道具にされていることは
想像に難くない。
ダラムサラでの亡命政府の存続自体が危ぶまれていたのか
あるいは、ただ、中国はひどすぎるから、インドにチベットを取り返してくれと言いたかったのか。
考えられることはいろいろあるが、詳しいことはよくわからない。

わからないなりに、その時はじめて、チベットが、
政治的にかなり難しい状況におかれている。ということを肌で感じた。

2012年には、カトマンズのボダナートというチベット仏教の聖地で、
直径27メートルに及ぶ巨大なドームの上に立つ
ブッダの目玉付の独特の仏塔のまわりを、
五体投地という礼拝を繰り返しながら
尺取虫の様に進んでゆく信者の人々を見た。

立って礼拝し、大地にひれ伏して礼拝し、
五体投地で祈り続ける人々を見たのははじめてで、その姿は衝撃的だった。
大きな仏塔の周りを、あんなやり方で進んでいたら、さぞ疲労困憊することだろう。
気が遠くなりそうだ。一日かかっても終わるかどうかわからない。

たまたま入ったチベット料理のレストランから、礼拝を続けながら、延々と進む人々の列が見え、
それを見ながらモモというチベット風の餃子を食べる自分に、なんともいえない違和感を覚えた。

そういう文化の頂点に、ダライ・ラマは立っている。

そんなダライ・ラマ法王14世の基調講演にたまたま、
参加させていただくことができたのだ。感動(T_T)

講演のタイトルは「大切なものを失った時、自信と叡智をはぐくむ方法」。
全体の内容は徳ちゃんが詳しく書いてくれているのでここでは省く。
興味のある方は、こちらを見てね。→http://ameblo.jp/golden-universe/entry-11816582081.html

報道記事↓

http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/07/dalai-lama_n_5106136.html?utm_hp_ref=fb&src=sp&comm_ref=false

 

チベットを追われ、最初にダラムサラについた年に、
荒れた土地の、激しい暑さに死にそうになっている民衆を励ました話と後日談に、
わたしは多大な感銘を受けた。

己を育み、率いるチベットを追われ、自らも大きなものを喪失したダメージの中で、
ようやくたどり着いた滞在先での、苛烈極まりない状況。
それでも自分を頼り、崇拝する民衆を前に
揺るぐことなく未来を信じ、希望を持ち、励まし続けることを可能にさせた
その「もと」になったものはなんだったのか。
切実に知りたいと思った。

質問した。
一番に(笑)

手を挙げた時には、まだ質問がまとまっていなくて
マイクを持った瞬間から、最後にお礼を言うまで、ずっと足ががくがくしていたけど、
伺えてよかったと思う。
どうしても、そして、明確に、わたしにはその波動が必要だったから。 

「自分に正直であることだ。正直に生き、正直に語ること。
自己に誠実であれば、自分を信頼し、すべてに心を開くことができる。

その上で現実に可能な方法を研究し、全力で実行する。
置かれた状況の中で、何が一番大切かを考える必要がある。

心を開いていれば、世界中が兄弟姉妹となり、沢山の援助が得られる。
不安や恐怖は、利己心から生まれるのだ。
利己心は孤独を創り出す。ただでさえ困難な状況が、さらにひどくなってしまう。

だから、自分に正直でありなさい。正直になった上で自己を信頼し、
すべてに心を開いているということが、一番大切だよ。」

そうおっしゃって、ダライ・ラマはにっこりと笑った。
すごく楽しそうに。
存在を慈しむように。

仏教の教えを語られるのかと思ったが
普通の言葉で、わかりやすく答えが返ってきたことが、より一層うれしかった。

わたしにとって、生きた言葉を受け取るということは
コーヒーマシーンをもらうようなものだ。(変な比喩ですが・笑)

もらったからには、コーヒーを淹れなければならないのだ。
(生きた言葉というのは、そのひとの実体験に基づいた言葉、真実に基づいた言葉という意味。体験を伴わない言葉は振動が弱く、貰ってもエネルギーを使うことができない。)

というわけで、何日もコーヒーを淹れ続けた結果
どうも自分には正直さが欠けていたな。
という結論に達しました(泣)
わたしは人には比較的誠実な人間だと思うけど
自分には、誠実ではなかった。

どおりで怖いものが重要だったわけだ。

というわけで、反省中です(T_T)

コーヒーを淹れている間中、ないことになっていた様々な感情の棚卸をするはめになり、結構大変でした。
その感情があったから、痛い思いもした。
ということがよくわかった。

でも必要だったんだと思う。その時には、そうするしかなかった。
その後様々な機会があり、自分が認めた感情をいろんな人に話してみたけど
案外、それで引くひとはいなかった(笑)

同じ体験(しかももっと壮絶)をされた方に、「ゆるせない人がいるんです。」
という話をすると、それはたぶん、そのひとではなく、ご主人を許していないんだよ。
と、言われた。

そうかもしれない。

それで、いつも夫にごめんね。と言われているのに
その言葉をずっと、受け取れずにいたことを、思い出した。
自死の直後から聞こえるその声を感じるたびに
どうしても心が反れてしまう。

意を決して、その「ごめんね。」の声を抱きしめてみた。
驚いたことに自然に自分からも、ごめんね。があふれ出た。

心に日本昔話のような桃の花が咲き
お囃子が聞こえて
それから、わたしたちはずっと手をつないで歩いている(ような気がしている・笑)

こういうことを、わたしはずっと続けていくんだろう。
すぐにすべてが変わるわけではないかもしれない。
ふつふつと、憎悪や敵意がたぎってしまう日も、あるかもしれない。

どんな感情がわき出てきてもいい。
いつか、必ずゆるせる日が来る。
なぜなら、本質のわたしは、どの瞬間も、すべてを完全にゆるし、完全にゆるされているから。
そのわたしはいまここに、同時にあるのだから。

瞑想は、普段の自分に、本質の自分を馴染ませてゆく訓練だということを
講演で教わったので、さっそく翌日から日課に瞑想を入れてみた(^○^) 

というわけで、今後はさらに、心が開いちゃうことでしょう。
そしてたくさんの援助がやってくる(^○^) 

それにしても、わたしがチベット人だったとしたら、仰ぎ見ることもできなかった方に
直接物を尋ね、答えていただけるなんて、奇跡のよう。
ありがたいような、不条理で申し訳ないような、
この世界の不思議を改めて感じるできごとでした。
 


by terasumonnmoku | 2014-04-10 21:33 | Comments(0)

追記

夫がサポートしている研究者の方の話の追記。

研究や、科学に対する本物の情熱を持っていた夫は
彼女のような人はほんとうに嫌いだと思う。
彼女がもてはやされ、そして貶められてゆく社会の仕組みみたいなものも
ほんとうに嫌だと思う。
でも人生は、「人をゆるし、自分をゆるすことによって自由になる」
という学びのためにある、と考えると
格好の学びの対象であると言えるのかもしれません。

どんなひとにも、その人がそうである理由があり
それ自体は善でも悪でもない。
ある面から見ると、それが悪になり
ある面から見ると、それが善になるのだということが
彼にはどうしても受け入れられなかった。

わたしたちみんなが、きっとそういうことをしているのだろうし、
今起きている社会の矛盾も、そのような仕組みが複合的に起こることによって
生起しているに違いない。

でも、ちゃんと生きているときに、自分の問題として取り組んだほうが
社会にとっても、自分自身にとっても、
実りのある、豊かな人生を送ることができたはずで
夫はあの震災がなければ、それができた人だと思う。
ひとごととして、嫌なシチュエーションをまじかに見続けなければいけない。
というのは厳しいだろうなあ。
と、改めて思います。

実際にあったことは、ある明け方に彼女の後を悄然とついてゆく夫の夢を見て
目覚めたあと、つけたテレビに彼女が映っていた。
ということだけなので、ほんとうかどうかはわからない。
わたし自身は、当然ながらまだ死んだことがないので
確信を持って言えることは、なにひとつないのです。

でも、姿はなくても、一緒に生きている。
わたしの認識が深まるとともに、
わたしが彼について素晴らしいと思っていたことや
何よりも大切に思っていたこと。
生前一生懸命伝えようとして
伝わらなかった言葉が、
今、少しずつ少しづつ伝わっている感触があって
それがすごくうれしい。
単なる思い込みかもしれないけど、感じていることは、
少なくともわたしにとっては事実だし、
それを人がどう思うかは自分の人生においては関係がないので
別にいいのだ(笑)



by terasumonnmoku | 2014-04-07 11:48 | Comments(0)

被害者意識を手放す。

4月になりました!春ですねえ~。
陽射しも新しい。

希望の会の土井先生推奨、
水島弘子著「身近な人の<攻撃>がなくなる本」を読みました。

攻撃する人は「困っている人」。

ひとはもともと「自信がない」存在なのではなく、
だれもが自己肯定にあふれた自信のある状態からスタートし、
「被害者意識」を持つことによって
「自信のない状態」を創り出していく。

という考え方が、大変参考になりました。
(何もできない赤ん坊が、なぜ全能感にあふれているのか、というなぞが解けます)

相手の土俵にあがって被害者役を引き受けるのではなく
「攻撃」を、困っている人の問題表明と捉え
それに対してどういう行動をとるかを
改めて自分が選ぶ。
という立ち位置は、快適です。

態度を自分で決められる。
そこに反応してもいいし、しなくてもいい。

自由だ。

いざ「攻撃」を受けた時のショックは
転んだ時の「痛み」のようなもので
それに対して何かする必要はない。
というところもよかったし、
話しには直接関係ないけど、
著者の水島先生の顔写真がすばらしい(笑)

気持のよい考え方をする人は、見た目も気持ちいい。
見るだけで爽やかです。
爽やかで、かつ社会的にも成功している人が増えているのは、うれしい。

なぜこういう本を読んでいるかと言うと
意外とわたしは繊細なので(笑・いやまじ)
というか、今まさに人生の総括のようなことをしているため
自分の中から出てくる、変なもの(たぶん被害者意識)
に向き合わざるを得ない、やむに已まれぬ事情があるのです。

だいぶ前から、普通にしているときはいいのですが、
真顔で写真にとられたりすると
自分の顔に必ず「不満」と書いてあるのが見え
秘かにやだなーと思っていた。

先週熱を出して、ネガティブな感情が出てきた後は
大分薄くなったのでよかったです。
(そんなこともあって、泣き顔や、怒った顔がきれいなひとに、無条件で憧れます。)

「不満」と書いてあるのが見えたって
中身がわからなければ手放せない。
なかなか面倒です。
鏡を見るたびに、いちいち「ああ。不満、って書いてある」と思うのも
更に面倒です。

被害妄想のなかで、わたしって特別だわ。
と、うっとり思っていた時期が長かったけど
別に特別でも何でもなく、極めてよくある葛藤の持ち方だった。
と、最近思う。

ところで、夫がサポートしている研究者の方が
大変なことになってしまいました。
こういうのを見ると
「死ぬ」って、結局、何の解決にもならないんだなぁ。と
改めて思います。
夫は真面目な人だったし、亡くなる直前に、
自分が研究において力が及ばなかった部分を
すごく反省していた。
だから、亡くなった後もその続きをしていて
彼女を支えながら、いろいろなことを考えているに違いない。
生きるのも死ぬのも、シビアです。
逃れられない。

この本の中で
「攻撃」に対する考え方を変えることで
「<攻撃>そのものが実は存在しなかった」
というような解決のしかたが記述されていました。
そういうものかもしれません。

個々の人生におけるさまざまな課題も
煎じ詰めれば最終的に「課題そのものが、存在しなかった」
と、いう解決の仕方を見せるのかもしれないと思う。

でもどうなんだろう。
それで実際解決すると、
ぽか~ん。という感じになってしまいそう。

どうも荘厳さに欠けるような気も、するなぁ~。




















by terasumonnmoku | 2014-04-01 14:16 | 読書 | Comments(0)

真理セラピスト・らくがきすと・即興ピアニスト+社会活動家(過労自死遺族/東北希望の会代表)幼少時より、生と様々な死から多くのことを学んできました。11年のセラピスト経験があり、仕事ではいのちのすばらしさについての、エナジーーワーク的なセッションやワークをしています。頭を現実的に使いながらメルヘンな世界を実現させていきたい。社会問題、スピリチュアルな仕事や宇宙のこと、日常について書いています。


by terasumonnmoku
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