2009年 01月 19日
意味の果てに住む。
鏡開きをしようと思っている間に時が立ってしまいました。
餡って、どうやって作るのかな?と考えていると、友人が突然作り方を教えてくれました。
感謝です。
というわけで、わたしは今、生涯で初めて小豆を煮て、餡を作っております(笑)
画期的だ!
ところでみなさま、今のご機嫌はいかがですか?ハッピーに暮らしてますか?
いろんなことがあるし、調子は日ごとにそれぞれだけど、この瞬間に限ってしまえば、ハッピーでいるのは簡単です。
お日様がまぶしいから。
餡がおいしくできたから(笑)
でも時として、凹んだり、ハッピーじゃない気分だったりするのは、頭の中でこねくり回している、物語のせい。
あるべきすがたに、自分や周りがはまっていない、ということに、いらいらしているに違いありません。
あるべき姿を求めると、そうでない姿もできてしまう。
人やものや関係のありように、理由や意味を求めると、どうしてもわたしたちは苦しくなります。
なのにどうしていつも、意味を探すんだろう?
自信がない上に、それを誰かにもらうものだと、思っているせいかな。
そんなものなくたって、すばらしいのに。
理由がなくても、全然困らないのに。
かたちがないものが欲しくて、かたちを求める。という矛盾です。
いずれにせよ、答えは自分が握っているのです。
近頃のわかったこと。
1)真我で生きるということは、まるごとそのままがすばらしいわたしを、ただひたすら、体験し続けるということ。
2)すべてを受け入れることと、すべてを手放していることは、同じだということ。
(ーそれが無限に大きく無限に小さい状態でもある)
3)まるごとですばらしい、を表現する、あるいは受け入れるために、特定の形は必要ではないということ。
形は珍重されるべきものでもなく、無視されるものでもない。
それはエネルギーと同じように、わたしたちが生きて、自分を表現するための、有益な手段です。
最近気づいたのは、ひとは、どうやら、エネルギーや波動が、もの、そのものにくっついている、と思っているらしい。と、いうことでした。
だからこれだけ多くのもの、これだけたくさんの形が必要なのでしょう。
だからこそ、目に見えない、それなしでは生きられないほどに大切なもの、をシェアするために、どうしようもなく物、それ自体が必要になってくるのです。
三次元の世界は、ポケットがものすごくいっぱいあるビリアード台みたい。
不思議なものに不思議な重要性が付加されている。
いろんな場面でいろんなふうに、わたしたちはこのイリュージョンにトラップされています。
たくさんのこうでなきゃ、に規定されて。
それはきわめてシンプルな仕組みなんだけど、一見とっても複雑そうに見えます。
物に誰かが付与した意味を、尊重する必要はあるが、意味そのものを共有する必要はありません。
最初の動機さえきちんと立てていれば、意味なんていくらでも創り出せのです。
住所は番外地・幸福。
わたしたちの家は、意味の果てに建っています。
うん、そうだね。やっぱり一つ目で見ないとそうなるんだよね・・
珠ちゃんのわかった三箇条僕も少しわかってきました。
いつもどうもありがとう