2011年 02月 01日
シンクロと記憶とアカシックレコード
ダーリンが出張した国には、ほどなく混乱が起こる。
彼は、きわめてまっとうな仕事をしているのだが、
アイスランドに行くとひと月後に国が破産し、
エジプトに行くとデモで治安が悪化し、パキスタンやモスクワに行くとテロが起こる。
アメリカから家族で帰ってきたときは、
その半年もたたないうちに911!
そういうシンクロはほかにもあって、
たとえばわたしの住む場所には、
なぜかお墓や神社や仏閣が複数あり、
住んでいるうちに、ぞくぞくと、徒歩圏内に新興宗教やスピリチュアルな店、
あるいは占いの館、などができてしまう。
呼んでいるんだろうか?むむん。
エジプトでは混乱のあまり情報統制が行われているようだが、ツイッタ―は可能らしい。
情報を管理しようとしても、できない時代が来ている。
暮れに近所のコンビニで、大騒ぎしながら国に荷物を送っていた、
三人のエジプト人のおじさんたちは元気だろうか。
寒空の下で、店員さん、客の私、エジプト人、みんなで頭を突き合わせ、片言の英語を駆使して(全員片言の英語しか話せなかった。それはそれでまったくおもしろかった)、苦労しながら荷物を送る算段をしたのだ。
数日後には国に帰るといっていた。
奥さんと子供が待っている。と顔をほころばせていたのだ。
どこかで何かが起こるたびに、平安に素晴らしい方向に、ことが落ち着いてくれるように祈る。
すべての混乱が、より素晴らしい未来に続いていることを信じている。
そのエジプト人のおじさんのことを考えていたら、
急に、わたしたちは個々に、独立した形で、この地球上に生きているように見えるが、
見えない世界で、実は、ジャガイモのように、蔓で互いにつながっているのかもしれない。
と、思いついた。
目に見えない紐帯のような、蔓。
宇宙の中心からのびた、生命というその蔓に、たくさんの実が成っている。
蔓は単に生命、というだけでなく、
いろんな次元に重なってつながりを作っていて
訪問すると国情が荒れるとか、
住むとすぴ系のものに囲まれるとか、
好きな学びはがんばることとか、
合わせるより否定するほうが好きとか、
そういう全体の傾向みたいなものからもできている。
個人が死んでも、記憶は残る。
それは別の蔓になった別の実が、記憶してくれているということでもあるが、
地球意識の、ある特定の時空間の記憶、のようなもの・・・ともいえる。
昔、生物が絶滅したら、その生物が持っていた記憶も、一緒に失われてしまう。
と言った友達がいたが
生命が失われると、持っていた記憶は形を変えて、残った存在そして、地球の総合意識、のようなものに引き継がれると、と、いま、わたしは思う。
なぜって、わたし自身が、見送ったたくさんの友人の記憶で
ある部分構成されているし
そしてそのひとの持っていたエネルギーに
いつでも、アクセスすることができるから。
死の影に彩られた、激しく絶望的で、耽美な恋の話とか、憎みつつ愛した実母との葛藤とか、亡くなったわが子を追いかけて、静かに死んでゆく母とか、、それをなすすべもなく見つめる家族とか。
彼らが、どれだけむき出しの愛であったのか。という、リアルな物語が
わたしの中に、たくさん残っている。
経験した人は、すでに失われてしまっても。
記憶のうち重要なものだけが、昇華され、大切なエキスとなって、拡散してゆく。
個体としての生物のなかにも、地球意識の中にも、それは残るに違いない。
それを部分的に感覚したのが、アカシックレコードだったりするんだと思う。
やり方さえ知っていれば、アカシックレコードに接続するのは簡単だ。
でも、当然ながら、自分が成長した場所までしか、データーを読むことはできないけどね。
人類集合意識というより、人類単体意識なんだよ。と以前大津先生は教えてくれた。
わたしたちは、自分で思うより、はるかに「みんな」なんだろうな。
みんなのなかから、ぽっかりと水面に顔を出した、氷山の一角のような自意識で、人の目を気にするようなことをしている。
なんて、
なんだかとってもかわいらしいね。