2011年 02月 03日
ブログさん
そもそも好きなうえに、よくいくご近所の店では、桐谷美鈴似の美少女が、にっこり笑ってプリンパフェを渡してくれるので
ますます好きになってしまった。
彼女のブログでみる感覚も結構好き。
妙に第三者的なのがおもしろい。
見た目ガーリーで、中身がおじさん。とか、
(きりたにさんが、おじさんだといっているわけではない、ので念のため)
おばあさんなのに、中身は少女とか、おやじなのに波動は姫、のような、外見と中身にギャップがある人が好き。
若くても年を取っていても、自分の恥をさらして、ちゃんと生きてるひとに、たまらない魅力を感じる。
そういうひとを、かっこいいと思う。
というか、そういうギャップの中に、そのひとの一生懸命さ、のようなもの、希望や願いや夢や数多くの美しいものを、わたしは見ているんだと思う。
覚悟を決めて恥をさらしている人の波動は、きれいで読みやすい。
でも、いいわけのたくさんあるひと、自分自身に、ちゃんと向き合っていない人の波動は
べたついたり、もやったりして、エネルギーの団子みたいになっていることが多い。
(もちろん、いつもそういう状態ではないんだろうけど)
意識としては、まだ未分化な状態なのかもしれないな。
ところで、人が自分自身をどう認識するか。
というのは必ずしも周囲の感覚と一致するわけではないので、常にどこかには、ずれが生じる。
特に顕著なのが拒食症のひとの身体感覚で、
拒食症に陥ってしまうと、鏡に映った自分の姿が痩せ衰えていれば衰えているほど、美しく見える・・・・ものらしい。
これは太っていても同じことで、太っていても、鏡を見て自分が太っていることを、認識できなかったりする場合がある。
食事の量も、どちらかというと、頭で作るイメージがほとんどで
何を多いと思うか。
というのは胃袋とはさほど関連性がなく、純粋に思考傾向の問題なのだ。
年齢に関する感覚もそれぞれで、実年齢が60で本人の感覚は20代とか、も、よくある。
以前ブコウスキーの本で、プールサイドで、老女が18歳の少女の身振りをしていた。
という文章を読んだとき、
なんとなくその書き方が、いかにもみじめな感じであったので、
これはおそろしい。
自分はそういう風にはなりたくない。と考えたが
だいぶ大人になって、老女が少女であるのは、当たり前だ。と思うようになった。
感覚や感情というのは、麻痺していない限り年を取らないんだと思う。
あるいは自分で自分を押さえつけない限り。
とうもろこしが通っている昭和風の小さな理容室には、
85,6歳になる世話役のマダムがいる。
彼女は行くたびにとうもろこしに漬物だの、きんぴらだのをどっさりと食べさせ、
帰りにはお菓子とジュースを持たせてくれるので
いったいうちの息子は何をしに行ってるんだかよくわからないのだが
(髪を切るのは50才になる彼女のご長男さん)、
その美しいマダムは、
「あたしはもう80も過ぎてだいぶになるんだけれど、
気持ちだけは20代のままなの。
だから、恋愛ドラマを見ても、すうっと主人公になれるのよ。
でも鏡を見ると映っているのはおばあさんなのよ。ほんとにびっくりするわ。」
と言っていた。
画家のジョージア・オキーフが、晩年、
50くらい年下の、スティーグリッツとは似ても似つかない肉体労働系の男性に、
身の回りの世話をさせていて
(のちの男性は結婚し夫婦で世話を続けた)、
気難しいオキーフが、彼におひめさま抱っこされてうれしそうにしていた写真とか見ると、
わたしはこれをどう理解していいか、わかりません(ToT)/~~~
というところがあったんだけど、
そういうのが楽しいのかもしれない。と最近思うようになった。
生命というのは、ちゃんと生きて入れば、いくつになっても、日々鮮やかになってゆくものなのだろう。
オキーフは、きっと彼女の愛した砂漠のように、シンプルで、分かりやすいひとがよかったのかもしれない。
彼の俗物性とかが、たまらなく面白く思えたに違いない。
それはそれですごい。
今日立ち読みしてきた「くじけないで」という、96歳の詩人柴田とよさんの詩にも、96歳でも恋はするのよ。と書いてあった。
96歳の恋、なんて、考えただけでわくわくするではないか。
ガラス越しにキスとかしちゃいそうだ。
で、なにがいいたいかというと、自分の中のわくわくを年齢や、性別や、もろもろのあるべき規範で押さえつける必要はないってこと(笑)?