2015年 12月 26日
セザンヌとりんごの現象学。
もし、<冠を戴いた>を描けば、
そしてもし、ほんとうにわたしが
あたかも自然に即したように平衡させ
色合いの差をつけるとすれば、
すべての震動があるに違いない。
BY セザンヌ
これが、今日最高に感動した言葉。
現象学の発展に尽くした、メルロー・ポンティの「意味と無意味」のなかにあったものです。
メルロー・ポンティは1908年生まれの哲学者で、
世界をおもに人間の体から柔軟に考察することを唱えました。
その哲学は「身体性の哲学」とも呼ばれ、
従来は対立するものと考えられてきた<自己の概念>と<対象の概念>を、
知覚における認識の生成まで掘り下げました。
例)アイスクリーム
アイスクリームの概念のない人ー対象を、
などの、単なる<現象>としてしか
アイスクリームをアイスクリームとして認知するためには、アイスクリームという言葉(記号)を
こういう考え方を「現象学」といい、
それはともかく、最近、哲学にはまっています(๑'ᴗ'๑)
なぜなら、<現象>に興味があるから。
正確に言うと、<現象>が教えてくれることに、大変興味があるのです。
高校時代に哲学にはまっていたときにも、
フッサールの「現象学」でつまづいて
先に進めなくなってしまいましたが
ものすごおく大人になって、師匠に出会い、真理を学び始めた時も
結局<現象>にひっかかりました。
なにか悩みができて、相談するたびに
「現象に振り回されている」と師匠はいうだけなので
ほんとうに困りました。
そもそも自分には、<現象>というものがなんなのか
まったくわかっていなかったのだ。
ということに気づくまで、
ずいぶん時間がかかりました。
<現象>を事実、もしくは本質と混同していたのです。
<現象>というのは、WIKI先生によると
人にとって)見えるもの、つまり(外面的な)<<現れ>>のこと。
出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、
その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせずに、
その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。対義語は<本質>
どこからどこまでが現象で、どこから先が存在そのものなのか。
存在の本質とは何か。
または、仮象とは?
という問題は、科学や、哲学や、認識論などの分野でも意見が分かれ
取る立場によって、定義が変わります。
そらあ、いきなり言われたって、わからないよなあ!
個人的には、カントの、現象は物自体と対比され、
物自体と主観との共同作業によって構成されるものと考えた。
別の言い方をすると、現象というのは物自体に主観の構成が加わった結果のものであるとし、
人は現象が構成される以前の物自体を認識することはできない、というのや、
ヘーゲルの、「本質は現出する」と言われ、“「本質」は「現象」となることによってのみ存在する”。
という考え方が、結構しっくりします。
ちなみに、もんもく語訳によると、ヘーゲルの<本質>は、プラトンの言う<イデアー真に存在するもの>と同義です。
カントとヘーゲルの違いは、<存在>に対する、それぞれの認識の深さの違いなんじゃないかと
勝手に考えています。
言葉の定義が、著者によって、そして翻訳者によって異なっているので
言葉につめこまれた中身を読みこみながら考える必要があり、
ほんとはドイツ語読めたほうがいいんだろうなあとしみじみ思う。
で、冒頭に書いたセザンヌは
物自体の形を超え、そこに自分が無意識に付加している枠組みや意味付を超えて
<食器セットとパン>の本質の現出そのものを描き出せたら、
それは現存する美の深淵、震えに満ちたその本質そのものにたどり着けるはずだ。
ということをいっているわけで、
なんだかそれはすごいなあ。と思ってしまったのです。
セザンヌのりんごがあんなに美味しくなさそうなのに
妙にわたしたちの心を打つのは
たぶん、そこにりんごや、りんごを描こうとするときに画家が持つ当時の前提を
軽々とぶち壊すものがあったからなのでしょう。
これはたぶん、固く、すっぱく、一つ一つが重く、でも皮をむいた時に
鮮烈な香りが匂いたつ、実に美しいりんごで
しかも遠近法を無視し、並び方が物理的に成立不可能な形で描かれている。
なのに、りんご部分だけでなく、絵全体のすみずみまでもが、りんごの存在感に充満しているのです。
りんごが、りんごであることさえ超えるほどに、りんごをやっている。
ここに、王冠があるかどうかはわかりませんが
雪と震動は、なんだか見える気がする(๑'ᴗ'๑)
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/cezanne_pommes.html
さまから、画像お借りしました。