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東京都美術館へ、ウフィツィ美術館展を見に行く。
ウフィツィ美術館はフィレンツェにあり、若かりし頃に一度現地で見たことがある。

当時はとにかく自分がネガティブで、
常時6,7体の幽霊をくっつけて歩いていたので
見るものすべてが暗かった。
綺麗に見えるものは、アートの
限定された一部しかなかった。
ボッティチェリの「春」は、その重く暗いブロックをものともせず
魂に飛び込んできてくれた、稀有な作品の一つ。

今回の展覧会では「春」はなかったが
ボッティチェリの作品が年代ごとに5つくらいならんでいて
その変遷がとても面白かった。

特に好きだったのが「聖母子と洗礼者ヨハネ」という絵で
赤ちゃんのキリストをヨハネに渡そうとしているマリアの姿が
後のキリストの磔刑を想起させる構図で描かれている。

そのすべてが、調和に満ち、美しい。
ボッティチェリにとって、キリストの磔というのは
悪でも非業の死でもなく
一連の奇跡につながる美しいピースの一つだった。
ということが、絵の中から静かに伝わってくる。
愛と悲しみと聖性と救いが、無数のきらめきを放ちながら
光の波紋のように立ち昇る。
(こういう動的なオーラが、印刷されると消えてしまう)

ところが晩年、メディチ家が没落し、カルトな宗教指導者がフィレンツエの実権を握ると
その静かな調和と輝きが見事に姿を消し
まるでジョン・フォードの時代劇のような光景が
絵の中に現れる。(加筆されたせいもある)
それはキリストとキリスト教が絶対的な善であり
他のものは存在さえ許されない。ような強烈さの漂う
ばりばりの二元論の世界だ。
陳腐でもある。

「聖母子と洗礼者ヨハネ」に存在するボッティチェリの調和は、
ピカソの「泣く女」や「ゲルニカ」に通じるものだったのかもしれないな
と、それを見て思う。
描かれた対象から、「意味」が剥奪され、
「調和」の前にひれ伏している世界。

普通の人間としては、自分の子どもが磔にされることを予感しながら、
あれほど静かに清らかにあることなどありえないだろうし
愛する女の「悲しみ」や「苦しみ」。「戦争」の暴力や傷を
楽しげに描き出すピカソの感覚だって、全然わからない。

でもその世界はそこに在って、わたしはボッティチェリに美を感じ
ピカソには「生命のよろこび」を感じるのだ。
じゃっかんの罪悪感に刺されながら。

ボッティチェリは見た目がまだきれいだからいいが
ピカソは破壊的である。

彼が関わった女性は、一人を除いてみんな発狂したり
自死したりしているが、
夫の浮気相手と泣きながら掴み合いをしている光景を
当の夫に感情の流れごと、嬉々として描かれたら
おかしくもなるだろう。

二元論を超えた世界は
時としてそういう残酷な表れをするものであって
受け取る側としては、わが胸の内にある意味の残滓に
抵抗を示しつつも受け入れざるを得ないような、
複雑にして微妙な気持ちになるのだが

どんなに葛藤している時も、
どんなに暗く深い淵に落ち込んでいる時でも
彼らが淀みの中のわたしを突き動かし、
後々まで続く鮮烈な影響を与えたことは間違いのない事実だ。
それほど調和と言うのは
生命にとって、大きな影響力のあるものなのだろう。
だから自分もそこをめざして、いくしかない。







by terasumonnmoku | 2014-11-05 19:58 | アート | Comments(0)

クリストの宿題。

FBで

O que passou, passou, mas o que passou luzindo, resplandecerá para sempre.
Goethe

何が行われ、しかし、光っていたし、は永遠になります。ゲーテ (翻訳: Bing)

という投稿を見かけ、突然、20年越しの宿題が解決した。
(わたしは疑問に思ったことは何十年でも考え続けていられるのだ。怖すぎる~)

これは、ざっくりいうと、
「何が行われたか、とうことではなく、そこに込められた光が、永遠になります」
というような意味だと思われる。
いろいろな場面で使える、鍵のような言葉。

前にも何処かに書いたと思うが、わたしは、
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「すべての芸術は、うちに永遠を秘めている」
というポール・ヴァレリーの言葉を信じていて、
かねてクリストと言うアメリカの現代アーティストの作品が
ものすごく好きだったにも関わらず、
瞬間芸術という作品の在り方に疑問を持っていた。

それで、彼の講演に行ったとき、本人に
「瞬間的にしか存在できない作品のどこに<永遠>があるとお考えですか?」
と(考えようによっては大変失礼な)質問をしたところ、
「見た人の記憶の体積の中に、永遠が存在する」
という答えが返ってきた。

その答えがずっと気になっていた。
何かが足りない。
納得できない。
 
今日、このゲーテの言葉を読んで、はじめて、積年の疑問が解決した。

島を囲ったり、砂漠に傘を大量にさしてみたり、渓谷に布を垂らしたりすることで
たぶんクリストは地球やそこに住む生命を、祝福し、賛美し、愛を告げる。
と言うことをしていたのかもしれない。
そこに込められたものは、少なくとも彼にとっては紛れもない「光」だった。

だからこそ、難しい幾多の政治交渉にもめげず、こうした大規模の作品を、
大量のお金を集めて次々に実現することができたのだし、
その「光」を顕わす並々ならぬ熱意に共鳴して、
応えてくれた人がたくさんいた、に違いない。
(景気も良かったし、宣伝にもなったのかもしれないが、それにしても大きすぎる。)

作品集を見ていると、ワインボトルのような小さなものから包み始めて、
だんだん規模が大きくなってきたようなので
彼の中の愛と光も、時間経過とともに育ってきたのかもしれない。
よく考えるとこれはものすごく大それた、I LOVE YOUだと思う。
YOU に入るものがとんでもなく大きいからщ(゜ロ゜щ)!!

そして時には国境をまたいで、難しい交渉をまとめたのは、
先ごろ亡くなった奥さんのクロードの功績で
だから現実化したこれらの作品群は、クリスト一人によるものではなく
彼ら夫婦の共同作品ということができるかもしれない。
ふたりの想いの上に、行政側の許可を出した人、お金を出した人、
製作作業に関わった人、これを目撃した人などなどのたくさんの共鳴が重なって
この「囲まれた島」↑のような物語ができていたのだ。
そういうことを考えると、クリストの世界は、夫婦二人の人間的な愛からスタートした、
地球規模の作品群-光の共鳴ということができ
たぶんわたしは、そういうところにもものすごく惹かれていたのだと思う。

なるほどー。そうだったのか。
だから彼の作品が、こんなにも気になっていたんだ。

今日は、満月。
疑問が解決するのに
特別なタイミング(たぶん・笑)ものすごくすっきり!

写真は、マイアミの11の島をショッキングピンクの布で囲った彼の代表的な作品。
「囲まれた島」のプロジェクトです(^○^) 





by terasumonnmoku | 2014-04-15 23:49 | アート | Comments(0)

311つなげよう希望の光

長町びすた~りで行われた、イベント「311つなげよう希望の光り」に参加しました。

2年前の311は、徳ちゃんくみちゃんがジャックした
エフエム泉の「星空プロジェクト」特番で、
夫へのラブレターを読んでもらう。
という公私混同なことをしていて(笑・この日記のどこかに埋まっているはず)
昨年はここ、びすた~りで、徳ちゃんの読む、
世界的なデザイナーで、ピースコンダクターの稲吉紘実先生著の
「この星が絵でうめつくされたら」の物語にピアノで音楽を付けていた。

その大好きな稲吉先生に、一年ぶりの再会!!!!
会うなり「顔が変わったね」と言われました(笑)
やっぱり、昨年はまだひきつっていたんだろうなあ。
かなり、渦中だったので。

「おおごまだらになりたい」は、初めて読んだ時から泣きそうで
実際に弾いたらどうなっちゃうんだろう。
と、どきどき。

イベント開始直後の「おおごまだら」
徳ちゃんの声に導かれるように鍵盤に触ると、
ふつうに字を追って行ったときとは全然異なった感覚が、
立ち上がってくるのを感じました。

悲しみが、わたしたちのからだのなかで、強い力を持った光になり
まっすぐに進む道になってゆく。

エネルギーが変容するその場に居合わせたような、不思議な感覚。

その後、参加されたみなさんの復興の物語の後で、
20時46分に部屋のあかりを消して、
被災女性が作ってくださったローソクに火を灯し、

星空プロジェクト参加の世界中の方々と
希望の光をつなげました。http://311hoshizora.jp/

ろうそくが本当に美しくて、炎が鮮やかに浮かび上がる。

最後に「この星が絵でうめつくされたら」の朗読。

即興とはいえ、迷子にならないように調性やリズムや、主要なモチーフの
大体のイメージを決めてスタートするのですが、
はじめてみると、想像したものと全く別物になっていて、
弾いている本人がいちばんびっくりしました!

ピアノ、おもしろいなあ。
ピアノは独学で、いままでずっと「いいんですかっ!」という感じでやっていたけど
すっごくおもしろい。
鍵盤の上で音を紡いでいるだけで、別の世界に行けちゃうみたい。
音楽が、ドラえもんのどこでもドアみたい。

とうもろこしにも言われました。
「母さん、楽しそうにピアノ弾くようになったね」(笑)

あたたかな素敵な会に、みなさんと一緒に参加せていただきましたことを
とても光栄に思っています。
びすた~りで、みなさんとともに、祈りを寄せることができて
ほんとうにしあわせに思いました。 

これからまた、新しい毎日がはじまりますね。
いつが、人生最後の一日になっても悔いの残らないよう
悲しみを力強く抱きしめながら、元気いっぱい生きていこう。
だいじなひとと、微笑みを交わしながら。








by terasumonnmoku | 2014-03-12 21:35 | アート | Comments(0)
朗読イベント「魂の約束。ことだま、ことのは、そしてひかりえ」
終わりました~。

平日の午後という中途半端な時間なのに、沢山の皆様にいらしていただいて
ほんとうにありがとうございました!

楽しかった~~~~~~。
徳ちゃんの朗読する、るなちゃんや大津先生のことばに、音を紡いでいて
ああ。わたしは本来、こういうことがしたかったんだよなー。
と、改めて思いました。

るなちゃんの言葉、よかったなあ。。。。。
深くて、生き生きしていて、豊かであったかい。
しあわせーって感じ♪
それがうつくしく振動する徳ちゃんの声で響いてくるんだもの。

あなたがいてよかった。
わたしがいてよかった。
ここからすべてが、はじまっていくね。
ハートの中心からどんどん、どんどん、HAPPYが広がってくる。
音も広がってくる~~~~~

しかし、感覚的な記憶はあるのに、普通の記憶がないのです。

実際のところ、状況がよくわかっていない。
どんな言葉にどんなメロディをどのように合わせて、結果どうだったのか
さっぱりわからない。
音で考えているときは、ことばの意味を拾ってないのかも。
別のところで生きているのかもしれないなあ。

泣いていた人がいっぱいいたらしいんだけど
そういうのもわからない。

素潜りする、ジャック・マイヨールになった気分(笑)
すごく遠くから帰ってきたような。

ぼーーーーーーーーーーーーー。
ふと気づくと会場がすっかりあったまっていて
おや?みなさん、なにがあったんですか????
みたいな(笑)

うれしかったなあ~。
ほんとうにやりたいことをすると
こんなにうれしいものなんだなあ~。

と、思いました。

徳ちゃん、るなちゃん、ありがとう!
みなさま、ほんとうにありがとうございました。

ああ。
まだしばらくぼーっとしていたい。

余韻に浸っていたいけど
明後日に備えて指の体操の続きをしなきゃ~(^○^) 

あ、そうだ。るなちゃんから、「絵のない絵本ーこの星が絵でうめつくされたら」の著者・稲吉先生にいただいたものと同じ感想をもらってしまいました。
物語や言葉が、実際に「おりてきた」ときと、ピアノが奏でたのがまったく同じ音楽でした!って(^○^) 
うれしかった~♪

うふふっ(*  ̄▽) 
下りてくるその瞬間を音に変換しているんだから、当然さ~(鼻息荒い)
しかしそれをやっているわたしって、いったいなにものなの?と、ふと疑問に思ったり。

普通の自分じゃないことは確かだな。
誰でもなく、誰でもある。
海底二万マイルのネモ艦長みたいな。

それを真我と、ひとはいうんだろうなあ。
徳ちゃんの真我も留奈ちゃんの真我も私の真我も、みんな同じ一つのものだから
こんなにきれいに共鳴するんだろうなあ。

普通の人間としてそれを考えると
眩暈がー

by terasumonnmoku | 2014-03-09 18:14 | アート | Comments(0)
友人のかなちゃんと創っている「篳篥(ひちりき)&ピアノ」ユニット、
11Stepsの「風の音・光の音」コンサートが無事終わりました。

大雪の、大変な状況のさなかにもかかわらず、いらしてくださったみなさま、
ほんとうにありがとうございました。
心から感謝しております。
雪のために今回はお会いすることができなかったみなさま。
これからも活動してゆきますので、またの機会にぜひ、いらしてくださいね!(^○^) 

趣のある古民家レストラン「びすた~り」に響く篳篥の音色は、最高でした。
かなちゃんの篳篥は、回を重ねるたびに、どんどんと深みを増してゆくのです。
深々と降り続く雪のなか、聞いてくださる皆様や、漆喰の壁や、温かみのある太い梁に音が浸透してゆくようすが、ほんとうに美しかった。

みなさまと、その場を一緒に作ることができて、うれしかったです。

かなちゃんの「君が代」は、海に上る朝日の匂いがする。
希望に満ち、あたたかく、輝いている。
世界の、どこにもない響きです。
あのシンプルな楽器は、奏でる人の精神性を、ダイレクトに伝えてしまうんだろうな。

仲間内で楽しんでいるのがもったいなくて、どうしてもこの音を他の方に聞いてほしいと思いました。
それが、長いブランクの末に音楽活動を再開した、わたしの動機です。

篳篥は大変デリケートな楽器で、一本で音楽として成立させることが難しい。
でも、うまくピアノを合わせれば、モダンジャズみたいになっちゃうかも!
そうしたら、コンサートも開けちゃうかも!

かなちゃんは、渦中の混乱期からずっとそばでわたしを支えてくれました。
思えば彼女とのコラボも、夫の死がきっかけです。

結局、彼が道を作ってくれた。
音楽が響いている家が欲しいと言っていたのに、
こんなにも長い間、買ってくれたピアノを弾かなくてごめんね。

わたしが夫を失ったように、かなちゃんは、津波で故郷を、長く続いた家と畑と伝統を無くしました。
ふたりで創るこの音楽は、祈りだと思っています。
失ったすべてのものに、感謝を伝えたい。
そうすることで、わたしたちがともにあった時間を愛し、大切な記憶を引き継ぎ、ずっと一緒に生きていきたい。

演奏する場そのものもすばらしかったのですが、今回、更に感動的だったのは、自分自身が、このイベントをわくわくしながら楽しみに待てたことでした。
夫が亡くなった直後から、ほとんど眠らずに動き続けきて、ハードなことだけでなく、楽しいこともたくさんしましたが、
楽しむためには、感情の葛藤があり、常に気合が必要だった。

その行動をする前から楽しみにできていたか?というと、そうでもなかった気がする。
もちろん、全部やりたくてやっているのです。
ただ、自分の中のわくわくとは結びついていなかった。

このへん、うまく説明できる自信がないし、
その時点では全然そうは思っていなかったのですが、
ほんとうの自分、というより、わたしってそういうひとよね。というバーチャルな感覚のもとに日付を決めて
無理やりいろんなことを、こなしてきた気がする。

「わたしって、幸せだし、別に何にも問題ないのよねー」といいながら、
顔に思い切り「不満!」と書いてある人をよく見かけますが、きっとわたしもそうだったんだろうな。

まあしょうがない気もします。
大変だったんだろうし。(みなさんと同じように、やってる本人はよくわからないー爆!)

だから、今回自分が純粋にわくわくできたことが、すごくうれしかった。
かなちゃんは、どんな音を奏でてくれるだろう。
みんなはどんなふうに、それを聞いてくれるだろう。
そこに自分はどういう色をつけていくことができるのかな。

細部を見れば道は果てしなく、それはどの世界も同じです。
でも、音楽は楽しい。
まだまだ成長の余地がたくさんあることが、勇気をくれるのです。

身体の中で絶えず鳴り響いている音を、正確に表現できるようになりたいな!
練習あるのみ(^○^) 

11Steps の演奏会は終わりましたが、ここから三月頭まで
友人の及川徳子さんの朗読とのコラボイベントが続きます。
興味のある方はぜひ、こちらもよろしくお願い申し上げます♪

このたびは、ほんとうにありがとうございました!!!!!!










by terasumonnmoku | 2014-02-17 11:56 | アート | Comments(0)
塩釜のギャラリー、ビルドスペース。

フランスの著名なアーティスト・ジョルジュ・ルースのアート・プロジェクト
「松島2013 ネガ/ポジ」の映像を拝見し、代表の高田彩さんにお話を伺いました。

震災で被災し、取り壊しが決まった松島のカフェ・ロワンに、
このアート・プロジェクトに参加されたみなさんによって描かれた
大きな青い星。

カフェのほとんどの場所では、
バラバラの青いひろがりでしかないその色が、
ある一点からだけ星に変わるその様子が、

まるで、いまここで、
わたしたちみんながやっていることのよう。

ちぐはぐで、痛々しく、うまくいかない。

そんなことも、こうしてある一点からだけは、
美しい星の像を結んでいるのかも知れない。

そしてゆっくりと、桜の花びらや、
光の陰影をうちに溶かし込んでいるのかも知れない。

ジョルジュ・ルースは日本の俳句が大好きで、
わたしが個人的に大好きな山頭火の句に影響を受けて
この作品を構想した。
ということを彩さんにいただいた記事で読み、
二重にうれしかったです(笑)

ソフィ・カルが「最初のとき・最後のとき」で描いた世界で受けた
どうしても処理できないなにかの
完結した姿をここで見せてもらえたような気持がしたことも
秘かな感動でした(^○^) 

写真は先月26日に終わった展示のもようです。

来年3月頃、東京で展示されるようなので、お近くの方はぜひ
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by terasumonnmoku | 2013-06-17 22:11 | アート | Comments(0)
ソフィ・カルは1953年生まれのフランスの女性現代美術作家。
写真と文章を用いた物語性の高い作品で知られる。

彼女の他の作品には、街で拾った見知らぬ人のアドレス帳に記載された人々にインタビューを行い、持ち主がどんな人物であるのかを、実際に会うことなく浮かび上がらせた
「アドレス」があり、ソフィ・カルはその作品を作ったことで、30年前に訴えられている(!)

この作品展「最後のとき/最初のとき」に展示された一連の作品は

1986年に作られた、生まれつき目の見えない人に「美のイメージとは何か」を尋ねた 「盲目の人」という作品で得られた、ある男性の回答
      「わたしの見たもののうち、最も美しいもの、それは海です」
という言葉に触発されて、創られたもので

2011年の「海を見る」ー生まれて初めて海を見る人々の表情をとらえた映像作品。

と、2010年に作られた「最後のとき」ー突然視力を失った人を取材し、写真とテクストで綴った作品の2部構成になっている。(両方とも場所はイスタンブール)

目の見えない人に美について尋ねる。というような、
言いようによっては残酷で、ぎりぎりな感覚が好きだ。

ぎりぎりを突き詰めていくと、突然視界が変わり、前提が崩れ、別の世界が立ち現れる瞬間がある。
それをわたしはアートと呼ぶが、呼ばない人が大勢いても全然不思議ではない。

「海を見る」が展示されている部屋には、10個のスクリーンがあって、そこにイスタンブールの内陸部に住み、テレビすら見たことはないのではないか、と思われるような人びとが初めて海を見ている後姿が、一切の説明なくただ、映し出される。

しばらくして、彼らはそれぞれのタイミングでこちら側を振り向くのだが、その表情がすごい。

同じ海の、同じ風景を目にしているはずなのに、一人一人の心象風景のあまりの違い(純粋にわたしにとっての事実)に、慄きを感じた。

ある人の海は、単に理解できない「不可解」な表面であり、ある人の海は静謐で哲学的なありようを見せ、またある人の海は立体的で、光や色が際立った生き生きとした喜びに満ち、ある人の海は存在の根源に深く立ち入ってゆくような、神秘的で深い余韻を醸し出している。

人の数だけ、海がある。

それはもはや、認識とか視覚刺激の問題というよりも、その人自身がどれほどの事物に対する許容量を持っているか、どこまで自らの魂の深みに降りていくことができるか。ということについての、それぞれの告白を聞いているよう。

ひとはひとりひとり、違う世界を生きているらしい。とは漠然とは思っていたものの、まったく同じものを見る、大体同じ境遇の人の心象風景を同時に認識し、その差異を目の当たりにしたのははじめての経験だった。そこがまさに衝撃的だった。

2部の、「最後に見たもの」についての印象は全く異なっている。

その人たちの持っているイメージの情緒的側面は、そのひとが「視覚を失った」事実をどのようにとらえているかということに大きく左右されているように思われた。
ある程度それが許容できているひとの持つイメージは、どこかノスタルジックで、その人の中に二人の人間がいるような面持で立ち現れる。

見える世界で機能していた自分と、盲人としての別の人生と。

二つの世界の橋渡しをする最後の記憶は、誇らしかったり、悲しかったり、ちょっとおもしろかったりする、中身の分からない瓶に張り付けられたラベルの様に、残っている、らしい。

わたしが一番気に入ったイメージは、病気で徐々に視力を失った人の最後の記憶だ。

視界がぼやけて道路標識のポールと、傍に立っている女性の太ももの区別がつかず、転びそうになり、思わず女性の足をつかんで殴られたという経験を語る男性のイメージ。
たぶん厭な記憶ではなく、そういうことさえ大切だったほろ苦い記憶として、今もその人の中で生きていることがとても美しいものに思え、胸に迫る。

でも視覚を失ったことを、受け入れることができない人の記憶は、あまりにも「現在」でありすぎ、ただただ圧倒される。
彼らはその「苦痛」を日々新しく更新し続けることで、目が見えない人として生きていくことを、懸命に拒絶しているよう。

そのひとたちには、変化してゆく日常としての「現在」は、たぶん、存在しないのだろう。
そういうあり方を選択しなくてはならない理由は理解できる。
ただ、イメージは共有できない。
昇華されない苦しみは、誰のものでも個人的で、普遍性を持たないものなのかもしれない。

喪失ーについてがテーマなのだろうか、と漠然と考えてこの展覧会を見に来たが、これはもしかしたら、喪失というよりは獲得―変化についての物語だったのかもしれない。と、後になって思った。

海を見た人は、「海」という概念を獲得し、
視力を失った人は「視覚による認識手段を失う」という状況を獲得したのかもしれない。

わたしたちがこの作品展によって見ているのは、大きな衝撃によって、ある世界観が崩壊し、その人の中で世界の意味や秩序が再構成されてゆく、その過程だった気がする。

内的世界の秩序を再構築しつつあるさまざまな段階にいる自己像を見ているような、不思議な既視感があった。
by terasumonnmoku | 2013-05-15 18:56 | アート | Comments(0)
身体が豆腐のようになってしまったので、ゆるゆるランニング部に初参加。

ぽつぽつとオレンジの灯りのともる夕暮れの公園を、話ができるスピードでみんなで走る。

子供のころ、遊びすぎて真っ暗になり「またお母さんに怒られる!!!」と焦りながら家に帰ったときの気持ちを思い出した。

あったかい窓の灯りや、食事の匂い。
なつかしい。
(なぜか友人の秋田在住のみつこちゃんと一緒に走った!みつこちゃん、会えてうれしかったよ♪)

その前日は、思い立ってベラルーシ家庭料理の店に行ってみた。

何年もベラルーシと日本を行き来して生活しているというご主人に、ベラルーシの魅力について尋ねると、ロシア語のガイドブックを見せてくれた。

田舎の風景が、ラピュタっぽい。
手作りのデズニ―シーのような不思議な印象。

庭園の木の感じが、タルコフスキーの「ソラリス」に出てくる池のほとりに似ていますね。
と感想を言うと、ご主人の目がぴかっと輝き、ソラリス撮影の裏話や、マニアの語るタルコフスキーの魅力のほうに話題が振れた。

もともと彼がロシア圏に興味を持ったきっかけは、タルコフスキーの映画だったのだそうだ。
なにがひとの人生を変えるか、ほんとにわからないなあ。

そんな話をしていた時、たまたまやってきたメキシコ系の男性は、わたしが以前住んでいたカルフォルニアのサンタバーバラ出身だった。

当時通っていたシティ・カレッジの話をし、ヒスパニック系のクラスメートとのパーティが楽しかったというと、そうそう。と彼はいい、こんどその店でタコ・パーティをするので、遊びにおいでよとご主人に誘われた(笑)ベラルーシ料理の店だが、その日はメキシコ料理になるのだそうだ。

その前に行ったタンゴライブでは、友人の似顔絵作家うめももちゃんの師である舞踊家の小山先生に会い、かつてわたしが熱狂的に好きだったナム・ジュン・パイクという韓国系のアーティストの話で盛り上がった。

好きなあまり、ナム・ジュン・パイクの歌を勝手に作って、友達の前でしつこく歌い続け、大変嫌がられた話をすると、すごく受けて、

かつて東京で彼の個展(小山先生は当時美術展のプロディユースをしていたらしい)にかかわった際、パイクにおにぎりを食べさせた話をしてくれた。

過去と現在が交錯する感じが、たまらなくおもしろい。

小山先生は草間弥生のはじめての大規模な個展にも関わったそうだが、きっかけが当初企画したマイヨール展がぽしゃった代わりの代打だったのだそうだ。

マイヨール(アリスティッド・マイヨール。彫刻家。この人の彫刻は感動もの。大地の母って感じです)の代わりに草間弥生なんて、路線が違いすぎませんか?
というと、

そうよねえ。
と小山先生は無邪気に笑った。

生命力という点では共通する部分があるのかもしれないが、不思議なチョイスだ。

マイヨールを持って来たいほかの人に、当時はそれほどビッグネームでもなかった草間弥生を押して、しかもそれを通しちゃんなんて、すばらしい勇気だと思う

でも、おかげでわたしは、その日本で最初の草間弥生展を見て、彼女の本を読み、草間Tシャツを着て一人で悦に入って歩けたので(当時は誰の共感も得なかったが)よかった(笑)

ナム・ジュン・パイクの歌が聞きたい人は、わたしに会った時にリクエストしてみてね。

でもこの間リクエストされた時には、恥ずかしくて歌えず(なぜ?)かわりに、妹にいつも聞かせていた「グリコーゲンのうた」を歌ってしまいました。
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パイクの作品。PRE-BELL -MAN。ウィキペディアから画像を借りました!
by terasumonnmoku | 2012-11-11 11:49 | アート | Comments(0)

草間弥生の水玉LOVE。

こんにちは!みなさまお元気ですか?

てらすもんもくです~(^○^) 

今日も気持ちの良いお天気ですねえ。

きのう、藤崎で草間弥生とルイ・ヴィトンのコラボのショーウィンドをみかけ、びっくりして写真を撮り、FBにアップしたら、今年のヴィトンは水玉ですか!というコメントをいただきました。

水玉、かわいいかも!って。

その言葉に、すんごい感銘を受けてしまったw( ̄o ̄)w

あまりにも彼女の著書の
「第三章 淋病星雲精液拒否宣言」
とかの印象が強烈だったので。
(しかも本質的には今もどこも変わってないと思う)

そうかー

性的なメタファーって、普段はそこに特化した部分以外はないことになってるけど、考えてみればシヴァ神のご神体もリンガだしなー

そういえば、仙台のアーケードにもリンガが祭られていた気もするしなあー

ダイナミックな生命の流れというか、そういうものが欲望を刺激するって
考えてみればあたりまえのことなのかもしれません。

なんでびっくりしたんだろう。

むむーん。

だからどうということはありませんが、唐突にわたしはこれでいこう。と思ってしまった(笑)

キッチュな呪術の世界で生きてこう。

生命の流れをとりもどそう。

ああ。みんなでいるってすばらしい。
ものすごくたくさんの扉が、どこにでも開かれているようだよ。

ところで、わたしが別の意味で敬愛する岡本太郎さんは
天然の草間氏とは異なり、実は大変理性的な方で、かなり意識的に「いろもの」をやっていたような気がします。

そういうのも楽しいかも。

ちなみにアップした写真はこれ
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ちょっと、すごくないすか?
by terasumonnmoku | 2012-09-08 11:48 | アート | Comments(4)

お知らせ

このたび


〒981-3212
仙台市泉区長命ケ丘2丁目21-1ロイヤルメゾン泉101号
(宮城学院向いのショッピングセンター街の中にあります。)
tel 022-777-5201

楓屋カフェ&ギャラリーにて

3月4日12時から3月17日17時くらいまで


    Monika Kurokawa  & tamaco 2人展

を行います。

Monika さんは仙台在住のドイツ人で、シュタイナー学校卒業の生粋のシュタイナーガールであり、ルソー風の独特の世界観を持つ絵を描いています。

今回は私がかかわっている星空プロジェクトに参加する形で、その関係の絵を見ていただくとともに、彼女が震災直後に描いたすばらしい絵本「Hope」を皆様とシェアしたくて、企画しました。

だからテーマは 「Hopeー星空プロジェクトに寄せて」  です。

わたしたちの記憶に残るあの日の星空に祈りを込めて

本当に大切なものをきちんと大切にしてゆく決意を新たに

希望を、子供たちに残したい未来を

まずわたしたちの心の中に、

絵を通して、一緒に、つくる作業をしていただけたら
これに勝るしあわせはありません。

わたし自身まだ希望というには程遠い感覚をもっていますが、でもそんなわたしでも、はじめることくらいはできると思うのです。
今のわたしにはじめられるなら、たぶん誰にでも、できるはずです。

みんなでみる夢は、きっと現実になる。

仕事の都合上、わたし自身は4日と17日の限られた時間しかいませんが
よかったらぜひいらしてください。

なお、お店は12時から夜8時まで。

月曜定休。

充実したカフェメニューが魅力です(*  ̄▽) 
by terasumonnmoku | 2012-02-28 21:59 | アート | Comments(2)

真理セラピスト・らくがきすと・即興ピアニスト+社会活動家(過労自死遺族/東北希望の会代表)幼少時より、生と様々な死から多くのことを学んできました。11年のセラピスト経験があり、仕事ではいのちのすばらしさについての、エナジーーワーク的なセッションやワークをしています。頭を現実的に使いながらメルヘンな世界を実現させていきたい。社会問題、スピリチュアルな仕事や宇宙のこと、日常について書いています。


by terasumonnmoku